チームの歴史

1955年  「部創部の決意とスタート」 関西6番目のチームとして10月に創部

「部創部の決意とスタート」

 旧制甲南高校から新制大学へと時代の流れと共に変貌していく甲南大学に、創部まだ日浅き旧制高校フットボールチームは卒業生と共に消えていったが、その卒業生の胸中には、いつの日か甲南にフットボールチームを再起することが何よりの望みであったに違いない。たとえ一時でも楕円形のボールを手にし、ヘルメットをかぶった彼らにとってフットボールへの郷愁は学生時代の思い出と共に何時までも脳裏を去らなかった。
 昭和27年、池田高校タッチフットボール部出身の奥村氏、木村氏、豊中高校出身でタッチフットボールに精通した翁氏など部創設を望む人々により、徐々に足掛かりが築かれつつあったが、チーム創設の記念すべき第一歩を記すには昭和30年5月、奥村、木村両氏の具体的な創立への活動まで待つこととなる。 しかし、三人ではフットボールは出来ない。また防具もない。創部の意欲に燃える彼らの前にはまず選手を集めること、防具を入手するという最も困難な課題が横たわっていた。まず、プレーヤーを集めるため奔走したが、フットボールを習熟している翁氏の加入は、彼の精力的な動きと共にチームにとって大いに意義あることであった。
 彼らの熱心な勧誘の結果、5、6名の入部希望者も現れ、防具入手の段階へと入っていった。まだ市販されていなかった防具を入手するため、奥村氏は池田高校タッチフットボール部の一年先輩の長手氏(関学フットボール部OB)に相談を持ちかけた。折良く、警視庁のフットボール部廃止に伴い、その中古防具を関西フットボール協会が買い受け、当時の山之内理事長のご厚意で譲っていただくこととなった。偶然とは言いながら、防具入手の時期と創設の時期が合致したことは甲南フットボール部にとって何よりの幸運であった。長手氏に連れられた奥村氏を始めとする創設当時のメンバー9名は防具を受け取りにいった。皆ショルダーパッドを肩にのせ、ヘルメットを逆さにかぶったりして、初めて手にした防具に夢を馳せた。9名で18組の防具をかつぎ帰宅する彼らの顔には何とか立派なチームを創ってみせるとの気迫が感ぜられた。
 昭和30年10月に正式にアメリカンフットボール同好会として学友委員会に登録を済ませ、11月には関西フットボール連盟への登録も終えていよいよ練習が始まった。タッチフットボールの経験者であってもフットボールの練習は初めてであり、練習方法さえ分からないなか、防具入手で尽力いただいた長手氏に改めて正式にコーチ就任を依頼してトレーニングを行った。そして初代監督として旧制OBの月野氏にご就任をお願いした。
 やがてトレーニング期間も終わり、防具をつけて練習する日がやってきた。皆が一様にどんな練習をするのかと興味と期待を持っていた。「左右に半々に分かれよ」との指示に従い次の言葉を待った。「左の者はひとりづつはしれ。右の者はタックルしろ」サイドタックルの練習だったのだが、タックルのタの字も教わらないでタックルとは辛い。しかしコーチの指示だから拒否もできない。皆観念して無我夢中でタックルした。手だけでタックルする者、空気を捕まえようとする者、頭をボールキャリアにぶつける者、脳震盪を起こす者、足を捻挫する者、顔を擦りむく者などがほとんどであった。
 フットボールとはこんなに激しいものなのかと皆が思った。しかし部員も少ないながらも集まった、防具もここにある、続けねばならない、やめるわけにはいかない。甲南フットボールの発展のために一チームに満たない部員達は来シーズンのゲーム出場を目指し困難な状況の下で毎日部員集めと練習に励んだ。
これが我が甲南大学アメリカンフットボール部のルーツである。
(浦谷 伯)


1956年 「公式戦に登場!関西6大学リーグとなる」 学習院大学と定期戦開始 関西学生リーグに初出場

「公式戦に登場!関西6大学リーグとなる」

 創部から公式戦登場の経過は「甲窓」学園創立50周年記念特集号250~251ページに小生が記事をのせているので参照されたい。
 春季は予定通り3月15日~21日まで関西大学と合同で彦根で合宿を行った。3月とは云え未だ寒く、吹雪の日もあった。練習も酷しかったが関西大学の皆様と仲良くなり、太い絆が出来たことは大きな収穫であり今でも当時の方々とご交誼をいただいているのは有難いことであります。4月第二回西日本アメリカンフットボール選手権大会に初登場し、全滋賀に19-0と快勝し2回戦では全神戸に46-0と零敗、さすがに関学OBで固めた全神戸には歯が立たなかった。
 5月対学習院第1回総合定期戦に上京し、部員数11名と翁マネージャーまで防具を着用して貰って待機するという無鉄砲な状態ではあったが後半最終追い上げられたが24-14で快勝することができた、今でも学習院の同期の方々とお付き合いが続いていることは良い思い出となっております。
 夏合宿は、再度、古川氏を迎えて関西大学と岡山県営グラウンドで行った。
 秋季リーグ戦には甲南が初登場となり関西リーグ6校でリーグ戦を行うこととなった。
 リーグ戦での思い出といえば、10月13日京大農学部グラウンド、雨のドシャ降りの中、泥んこの試合、敗戦ではあったが13-12と接線を繰りひろげた。
 残念でたまらず、試合後京都出身の小野君と祇園のBarで散々、痛飲したことは忘れられない思い出として残っております。少人数の部員の上、最上級生は就職試験等で欠ける者が出、小生も全試合に出場できず、0勝5敗と全敗で加盟1年目を終えることとなった。
 しかし捨て石となって、甲南の基礎を築き、永続性のあるチーム、として強くなることを後輩に託したのであった。
 創部当時は、池田高アメリカンフットボール部出身者が中心となり、その上池田高出身者の先輩達関学OBの指導アドバイスが大きな役割を果していた事感謝する次第です。
 尚付記しておきたいのは甲南の創部当時、着用していたヘルメット、ヒップパット、又、使用していたボールを創部40年を機に協会へ提供し、現在西宮スタジアムのフットボールギャラリーに展示していただいております。
 これは、戦後、(株)ミズノの国産第一号品でありますので一度ぜひご覧いただけたら幸いです。
(木村 昌弘)


1957年 「念願の甲南だけでの合宿」 安西冬衛先生により部歌作詞

「念願の甲南だけでの合宿」

 卒業以来48年の歳月が過ぎ、ここに創部50周年を迎えることは当時を知る物の一人としてそのことに参加できた喜びと同時に今日までの永きにわたり甲南フットボール発展のために尽力された各関係の方々及びOBの諸兄達には感謝の気持ちで一杯です。
 私の現役当時は創部早々ということもあり、人・物・金全て無いものばかりの状況で未来に向かってスタートしたばかりでした。当時お世話になった方々は月野氏、長手氏、古川氏、ほか関大の諸兄達にも私達をご指導いただき、今でも本当に有り難く思っています。
 当時の合宿は部員が少なく関大の好意で一緒にさせて頂いていましたので、同僚の大野君と部員を多く集めて甲南だけで合宿が出来たらと話し合っていました。それが私達が四回生の時に一回生に武智君ほか多数の新入部員を迎えることが出来、大学構内で念願の自校だけでの合宿が出来たときには本当に嬉しく、今も楽しく思い出されます。大野君との思い出は毎日朝から晩まで一緒に行動していましたから有りすぎて困りますが、一度試合中にコノヤローと思ったことがあります。
 それは私達の三回生の時の関学戦で当時のスーパースターの関学QB鈴木さんをサックした時のことです。ゲームは一方的になっていましたし、相手があまりに格好良すぎるので一度まともにタックルしてやろうと思い、パスが来るのがわかっているときに後を考えず思いきり鈴木さんだけを見て突っ込み最高のタイミングでタックル出来ました。ヤッタと思って横を見ると鈴木さんの足元に大野君が組み付き、私を見てニヤッと笑っていたのは自分だけで決めたかったのにコイツと思いましたが、彼も後で聞けば全く同じ事を考えていたそうです。毎日行動していると考えることも一緒になるのだとつくづく思いました。
 このように私にとって甲南フットボールは良い人達との出会いを作ってくれた場です。また後輩たちの活躍を通じ私の青春を送り込んでくれます。甲南フットボール部、ありがとう。
(川原 慎治)


1958年 「ある合宿の思い出」 体育会アメリカンフットボール部に昇格

「ある合宿の思い出」

 前年度の名コンビ、川原、故大野闘将が、創部二年目にして、リーグ同率三位という実績を土産に卒業されたあと、ファイター千切(安原)主将を柱に、エース小野、QB浦谷両副将四年生三人組があとを引継ぐことになった。前年は何と言っても、当時の三強の尻に取っ付いた我々である。有望新人も成長して来て、やっとチームの体裁も出来てきた。
 長手コーチは昨年から、四スタンスで、スプリットTという画期的なフォーメーションを採用された。これは、ラインに千切、浜崎(三年)という両重量Tはいるが、まだ押しと持続力に不安がある、という懸念で初めから穴を拡げバックスのスピードでカバーしよう、という考えからであった。幸いバックスは小粒ながらタッチフット出身の駿足揃いであり、的を射た策であった。
 とにかく、バックスは掴まってもスクリメージラインからロスしない、というイメージに徹し、QBオプションプレイにしても、真横にラインの尻を触るように動き、スクリメージ上でハンドオフする、というスピードプレイに徹した。それに対応して相手LBがインチャージすると、その後方にクイックパスを投じ牽制する。また、E村田(二年)が実にこのキャッチが上手かった。
 春のシーズンはこの新フォーメーシンのマスターに必死で夏合宿を終え、やっとそのメリットがみについて来た。また、学内ではやっと「部」に昇格した。(これで部屋も出来、部費ももらえる)
 さて、秋のリーグ戦が始まると、立上りの立命、京大には通じたが、関学、同大には今一つ、及ばず、いよいよ念願の単独三位をかけての関大との対戦になった。(前年は六対六の引分け)
 当日は、朝から大雨のドロドロベッチャンの試合になった。私は、これは先取点が鍵を握る、と判断した。そこで前日から色々と考えていた通り、第一プレーは意表を衝いて、フランカー有村(二年)をカットインさせ、ほとんど両手でクイックパスを投じ成功。この一発で相手ゴール寸前まで迫り、三プレイにして目的の先取点を1げることが出来た。
 その後は、泥の中での双方必死の攻防が統き、私はディフェンスはセイフティーであったが、終了間際に自陣で真名に大穴を開けられ、「ヤラレター」と思った一瞬、T千切君が横っ飛びに強烈なタックル一発で、ノーフレッシュに仕留め、彼のその俊敏さに目を見張ると同時に「これで勝てる」という確信をも掴んだ。
 そして七対○で終了のホイッスルを聞き、創部三年目にして、ついに、三強の一角を崩し、堂々の単独リーグ三位を勝ち取り、互いに泥だらけの涙を拭って、一年が終わったのであった。
(浦谷 伯)


1959年 「同志社戦初勝利」 部旗作成・寄贈

「同志社戦初勝利」

 昭和34年度の秋のリーグ戦予想順位は衆目の見る処、関学、同志社、甲南、関大の順位であった。今をときめく京大、立命は我々の目中にはなかった。35年前を振り返ってみても実力的には前途の順位予想となる。
 緒戦の関大戦いつでも勝てると云う安易な気持から力を出し切れぬまま闘将合田の率いる関大に8-16で敗れ、又同志社も関大と引き分けた、昨年手中にした単独3位の座も危うくなった。そして10月18日土砂降りの雨と強風の中関学グラウンドで同志社戦を迎えた。
 フィールドに出る我々に「引き分けても4位やぞ」と叱咤された長手コーチの声が昨日の事の様に耳に残っている。しかし実力の差は如何ともし難く60%以上同志社にボールを支配されゴール前に迫られる事数度、その度に「もう駄目か」と思いつつも火事場の様な踏んばりでしのぎきった。そして第3Qハーフラインあたりからの攻撃だったと記憶するが、プレーNo.43、HB谷のストレートプレイが決まりTD。勝利の得点をもぎとった。しかしその後同志社の反撃も鋭く6点差だっただけに1点の重みをひしひしと感じながら薄氷を踏む思いで辛くも逃げ切った。
 対同志社初勝利をおさめ辛くも単独3位を確保したが安易な気持で臨んだ関大戦は大いに反省させられた事であった。逆に考えるとあの敗戦がなかったら同志社戦の勝利はなかったかもしれない。
 卒業するにあたり卒業生4名で部旗を寄贈した。デザインは連盟旗を参考にこの年より使われたボックスTフォーメーションを星型で表した。ここに甲南大の部旗が制定された。
(辻山 良平)


1960年 「関西リーグ2位確保」

「関西リーグ2位確保」

 甲南チーム初の9名の4回生、長身でスマートな主将村田、小柄ながらファイター上畑、巨体の井上をリーダーに新フォーメーションミックスドアップT、ボックスTを採用、西日本大会に臨む、一回戦京大には勝ったが第二戦全神戸にかきまわされ完敗、オープン戦でも関学に104点もとられ未熟さを味わった。
 心機一転伊丹駅前の松葉旅館と三井グラウンドの一日に往復の夏季合宿軟式野球が四面もとれる広さのグラウンドに鬼の大野コーチのラテラルに涙と汗が頬を流れた。徐々にチームの雰囲気が上昇しつつも武智が入院、しかしリーグ戦は待ってはくれない、第一戦同大、第二戦立命と勝利、第三戦昨年の苦敗が身にしむ関大戦、必死にファイト四苦八苦しながらも徐々に調子づき念願が成就した。いよいよ関学戦、学校裏の寺院に二日間の合宿。
 ダミーの打倒関学の四文字にチャージ意気が盛り上がったところで試合開始、しかし関学ははるかに難攻だった。大量点を許し涙をのむ最終戦京大には勝ち、初めて2位を確保したものの関学の壁を破ることが出来ず心技の不足を痛感、木村、中西、西尾の新四回生をリーダーとする後輩に夢を託した。
(麻生 実)


1961年 「夢は甲子園の土。関西リーグ連続2位」

「夢は甲子園の土。関西リーグ連続2位」

 創部六年目にして二位となったわが部は、次の目標はガリバー関学に挑み、甲子園に立ちたいということだった。しかし四年三名、三年五名では困難であり、部員三十余名の主体である二年生以下キザ、タンク、ガン、チンタ、ドシリ、カタル、ゴクドー、ドン、インド、カイブツ、パテトラオといった素質は高いが未知であるエイリアンのような彼等の成長が鍵となる。そこで長手監督及びフルタイムコーチに就任した武智キリストコーチ陣はそのため春合宿を福知山自衛隊演習場に決めて自衛隊も唖然とする猛練習で鍛えあげた。その成果は、春の試合で日大には完敗したものの、まずまずの戦果となり充実感が芽生えた。夏は恒例の伊丹と三井グランド三キロ余りを走って始まり走って終わるというタフな合宿を乗り切り、秋期リーグを迎えたのである。
 関大とは厳しいゲームであったが、なんとか同志社、京大、立命を退け、全勝同士で最終関学戦となった。全員大望へと奮い立った。だが、なにせ相手は学連の覇者関学である。昨年の例もあり前々日から芦屋竹園で合宿し心一つにして戦意の昂揚を固め、前夜は各自防具を整備しながら燃えた。
 当日、竹園で防具を着用し臨戦体制でチャータしたバスに乗り込み関学グランドに出発。関学高校前の広場で下車し、マネージャー松井が会場偵察している間、その広場でウォームアップをしながら刻を待ち、試合開始三十分前、その松井が先頭で部旗を揚げ、全員雄叫びしながら会場に突入したのである。後日談になるが、その時の関学の仲間達と飲みながら、「あれは『川中島』か」と言われ-我々は赤穂浪士の心意気-も関学も驚惜していたのだと知った。一方試合は関西一のリターナと称れた中西の敵陣二十五ヤードのリターンで始まるが、さすがは関学、自陣のレッドゾーンでは、まるで鉄の壁になり再三再四攻め込み、ギャンブルすれど跳ね返され、ゴールは遥かに遠く、その後の怒涛の攻撃を受け、タッチダウンを次々と築かれ、激しいコンタクトで負傷者も続出(そのために最後はほとんど二年生以下だった)。
 夕闇せまる中、死力を尽くしたが、終わってみれば大差であった。余談だが、もしフィールドゴール (当時は全くしなかった)があれば何回もチャンスがあり、差を縮めることができたのではないかと残念である。やはりガリバー関学であると改めて恐縮したのである。痛む身休と無念の心で汗と泥にまみれたユニホームのまま全員待っていたバスに乗って帰路についたが、私自身茫然自失して(後で脳しんとうとわかった)。何処へ帰って、どうしたのか今だに私にはその時の記憶がない。
 結局、私は二年間、チェーンマンとして甲子園に立ったのである。
 今、ふり返ってみれば、月野氏一家、故長手監督及び奥様、故大野コーチ多く先輩に感謝するとともに、後に続いている有能な後輩達に囲まれて、幸せと喜びに充実していることが何よりの誇りである。
(木村 敏博)


1962年 「万年リーグ2位、常に関学の後塵を拝した4年間」

「万年リーグ2位、常に関学の後塵を拝した4年間」

 創部50年、その一時期を甲南アメリカンフットボール部に参加でき忘れられない多くの先輩、後輩の顔、良き思い出と喜びがうかんでくる。すべての甲南フットボール関係者に心から有難うございます。
 故広谷浩三君との思いでのひとつに、朝日新聞コラム欄に寿岳文章教授が入試面接のことを書かれた記事″親の顔が見たい“というタイトルで寄稿されていた。
 入学してからの目的についての質問に対して、アメリカンフットボールと答えている者がいた。この様な子供を育てた親が悪いという内容であった。広谷君と顔を見合わせたことが思いだされる。
 三井グランドでの夏の合宿、グランドの広かったこと、野球場4面の外野の芝生、走れど走れど着かなくて辛かったこと。最後の風呂に入り風呂掃除をし、田舎の畦道を赤とんぽと夕焼けを見ながらトボトボと宿舎へ帰ったこと。農家の民宿で蚊帳を吊っての暑さと睡魔との戦い、汗と涙の後、部歌を歌い、部旗を降納し、やり遂げた充実感、北摂連山、六甲の山並み、夏の夕焼けの美しかったこと、忘れられない一場面である。
 甲南アメリカンフットボール都主催のダンスパーティが催され美女軍団を連れて来るように言われタカラジェンヌ5名を伴ったが、当時は泥まみれ、汗まみれの荒武者が多く室内でダンスを優雅にこなす部員が少なく壁の花(?)の面々も今は懐かしい思い出。
 4年間万年リーグ2位に甘んじ、常に関学の後塵を拝した苦い思い出もあるが頑強な先輩と多数の後輩達とフットボール生活が送れ、友情を育み、自分の人生に自信を与えてくれたことを感謝します。
(木村 陽吉)


1963年 「憎たらしきKG」

「憎たらしきKG」

 あれだけ練習して一度も関学に勝てなかった4年間。万年リーグ戦2位に甘んじた屈辱。入部した、1960年は、当時最強と言われた9人のレギュラーの4年生がいた。甲南が関西リーグ戦で初めて2位になった年で、それぞれに個性が強い塊の9人に、我々新人20数名は、心底しごかれた。頭から離れない思い出となって残っている。練習は苦しかった、楽しいことは1つもない。結果的に試合では苦しいと思ったこともない。
 関西の大学では、関学にしか負けたことがなく、明けても暮れても打倒関学。ヘルにもダーミーにも、あらゆる物に打倒関学。関学とは、4年間で10数試合以上対戦しましたが全敗。3年生、4年生の時の秋季リーグ戦での関学との決勝戦は、前日より、芦屋の竹園旅館に泊り、試合の当日は、部旗を先頭に関学グランドにバスで乗り込み雄叫びを上げて、力いっぱい戦ったが結果0敗。
 負けた悔しさ。伝統の力に勝つには、相手の倍、それ以上の力が要るということを、つくづく感じた。社会に出てからも、相手がKG出身だと聞くと「コノヤロー」と思ったものです。人生のうちのたったの4年間、相当なバカになっていたが、未だ足りなかったのかなと思う。お蔭様で、学生時代の4年間ずっと2位でおられた事を誇りに思っているし、少ない自慢の1つである。これから甲南大学でフットボールをしようと思っている人の為にも現役は、自分の為にフットボールとは何かということを良く考えて励んで頂きたいと思います。
(植田 正城)
 創部50周年を知り感無量。40年余り前の現役時代を思い浮かべると、長手監督大野コーチ諸先輩の指導のもと、勉学より熱心に打ちこんだフットボール。青春時代のこの経験を今も誇りに思っている。同級生の顔を思い浮かべるとキザ、タンク、カタル、ドシリ、ドン、ホテイ、ポンコ、チンタ等々皆あだ名で呼び合っていた。なつかしいなあ、久方振りに記念式典で会うのが楽しみ。
(島崎 忠夫)
 夏、水飲むなの怒声、根性主義今や昔、当時立命京大、参加に意義今や華、波我の差何処引退し目適の生活寒日、NFLの生放送を楽しむ、古傷悪化いずれ人工関節、が後悔なし、継統は力、五十周年に拍手。
(筒井 惇)
 卒業時に頂いたトロフィー、少しアクが出て来たが、40年経っても今だ傷もなく元気に部屋を飾ってくれております。今は、当時の方々と音信があるわけではないが、数人の方とは年賀状の交換をさせて頂き、毎年の心情、心境等の一文を添えてあるとその元気を頂ける気分になります。毎年が楽しみです。この歳になると孫が私に変ってアメフトをやってくれないかと、早く大きくなってくれるのを楽しみにすごす今日この頃です。
(福島 正機)
 若い力、燃える闘志、勝利の雄叫び。この思いでを持ち続ける先輩たちがいる。五十一年からの歴史を刻み続ける後輩諸君頑張れ!己に克つー!
(前田・思彦)
 ヤングレッドギャングあれから40年余思い出すのは真っ青な空、灼熱の三井グランド、夏の合宿。根性や、々とどなっている赤鬼のようなOB、先輩諸氏。皆んなこれを乗り越え成長した。学生生活を燃焼できたことに感謝、々。
(牧野 武)


1964年 「水野(現京都大学監督)キャプテン率いる京大を一蹴!3位を確保」

「水野(現京都大学監督)キャプテン率いる京大を一蹴!3位を確保」

 我々の時代は、ハーフで二度以上の選手の交代はできませんでした。そのため一人ひとりが何役ものポジションをこなさねばならず、練習も4、5時間、時には6時間にもなり、赤鬼コーチの命令で教室の明かりで練習したこともあります。例えば、私はQB、セーフティ、パンター、キッカー、パント・キックオフリターナーなど6ポジションを担当していたわけであります。
 私達が2回生になり例年の関学との新人戦を行いました。当時の関学は1、2回生がチームの主軸であり、試合は100点ゲームで敗退しました。パントとキックオフリターンの繰り返しで完全にグロッキー、その後不甲斐ない試合をしたという事で2時間半の練習、得意顔で帰る関学のメンバーの前でヘドを吐き、7時を過ぎた関学グランドで立ち上がることもできず、1回生とボール磨きをしたときの悔しさを今でも忘れません。
 しかし、このようなことが再びあるとは夢にも思いませんでした。我々の前年のチームは猛者揃いで、全ポジションのスタートを押さえていた関係で、新チームは試合経験の少ないメンバーでの出発となり、また前年までの成績を何とか維持しなければならないと、常にもまして厳しい練習をした結果、怪我人続出、当時流行っていた集団脱走、新1回生の獲得もままならず春の合宿は12人で行い、初戦西日本大会では常勝していた同大に敗戦、恒例の東西対抗戦も13人ぎりぎりの人数で上京し、各ポジション掛け持ちで何とか勝ったが、食事後の東大戦は悪夢の関学新人戦と同様大敗をきして、昼の食事は東大グランドの土となった次第です。
 秋のシーズンは、脱走者の復帰、新人の増加で30人となり、水野(現京大監督)キャプテン率いる京大を一蹴、関大に初戦敗退すれど何とか3位を確保し、新人戦で大敗した最強の関学からタッチダウンを得たのも、3回生の大きなサポートがあったからこそとお礼方々記したいと思います。
(天野隆史)


1965年 「無念の関大戦 そして雨の関学戦」

「無念の関大戦 そして雨の関学戦」

 昨年の3位転落を猛反省し、小粒な5名の4年生のリードで、関大に対する雪辱と打倒関学を目指して、昭和40年のシーズンはスタートした。
 フォーメーションも新しく、オクラホマ・スプリットTを採用、QBのオプションプレイとリバースフェイクのアクションパスを軸に、お得意のクイックパス、QBスニークを盛り込んだ攻撃を展開。ラインの間隔は標準的なスプリットから相手に気付かれない様に広げたり狭くしたりと変化を持たせ、取り易いアングルを作る。バックスもラインもかなり頭も使うため、タイミング合わせとフォーメーションの修得に、また不測の事態でキャプテン三原君の停学事件もあり、春季シーズンはそれに費やされた。
 服部緑地公園のユースホステルを合宿所に公園内を転々としながら、夏合宿を終えて秋季リーグ戦に入った。
 下位校相手の試合は順当な勝利で終わったが、昨年の屈辱を晴らすべき関大戦は、春の練習試合の惨敗の影響からか、試合前の練習スタート時から暗い雰囲気が漂っていた。必死に声を出し合い、ムードを盛り上げて試合に臨んだ。しかし簡単に先に点を取られ、売出中の関大強カライン梶、多久和、有田君などをトラッププレイで翻弄させ、精一杯追い上げたが、無念の引き分けに終わった。
 そして迎えた関学戦は雨の中のゲームになり、グランドコンディションは最悪、相手も同じ条件なので文句は言えない。また使っているフォーメーションのせいにもしたくないが、しかし頑張れど得点できず、副将栫君の退場も非常に痛かった。10年選手の多い関学との格差は大きく、結果38-8で試合終了。リーグ戦での対関学相手の得点差が過去最少であったという、自己満足と又それを誇りにさみしくシーズンは終わった。
(石崎英一)


1966年 「負ければ練習、勝ち方悪いと、また練習」

「負ければ練習、勝ち方悪いと、また練習」

 我々が4年生になったとき、監督長手氏の転勤により監督には大野氏が就任された。
 大野監督が「ディフェンスが完壁に0点で押さえれば負けることはない。ストレートプレーとオプションだけで必ず勝てる。」とよく言われていたことを覚えています。ともかく、練習時間が長く、毎日日暮れ遅くまで100本チャージなどよくやりました。そして、早朝練習もあり、朝の眠気には参りました。
 試合終了後、負ければ練習。勝ち方が悪いと言われて、また練習。何故か、練習の記憶が試合よりも鮮明にあります。
 アメリカンフットボールも現在はメジャースポーツとなり、監督、コーチのウェイトがラグビーやサッカーに比べて非常に大きいと思います。ゲームが始まると、ラグビーなどは選手達のみで試合を進めなければなりませんが、その点フットボールでは、監督やコーチといったベンチの活躍によって試合の幅が広がり、より見ている者の楽しみが増してきます。選手、コーチが一体となって実力をつけ、これからの甲南大学の飛躍を期待しています。
(塚元芳秀)


1967年 「入部時の思い出」 近畿大学加盟で関西学生リーグが7チームとなる

「入部時の思い出」

 昭和39年入部、43年卒業で高校時代バスケットボールをやっており、大学でも何かスポーツをやりたく、それも高校時代に経験が無くてもハンディキャップにならないスポーツをと、グランドで運動部の練習風景を見ていたときに大野さんにつかまり色々おだてられ、またフットボールの練習自体は常に全員が走り回っているわけでもなく、パスにしてもチャージにしても順番が来るまで待っている時間もあり、なんとなく「楽」なスポーツに見えたのも、入部を決めた動機であったように記憶している。入部当時の主将は天野さんで髪の毛は縮れ、顔は黒く、目はギョロッとしており、日本人とは思えぬ風貌で、当時の巨人軍の長島選手のように爽やかで包容力もあり人間的に惚れていた下級生も多かったように思う。
 1回生と4回生では大人と子供ほどの体力差があり、天野さんのスタミナは「すごい」と当時は思ったが、今から思えば、Tフォーメーションでクイックパス主体のクォーターバックの天野さんは、あまり走る必要もなくそんなことが「スタミナの素」であったのだろうか。面白い言葉もあった。練習でうまく天野さんのパスをキャッチして列に戻ったら「よっしゃ、それや。忘れんうちにもう一丁行こう」。もう一丁行った私も純粋であった。夏の練習の最初は防具をつけず、体力作りが日的であり住吉川の焼き場までロングをよく走らされた。1回生は当然、皆から遅れるが、遅れる1回生を橋のあたりで上畑さんが待っておられ、「頑張れ、もうチョイや」などと励ましながら伴走していただき、優しい4回生と思ったものだった。平井さん、西脇さん、村松さん、酒井さん、上畑さん、永田さん、多田さん、翁さん、皆さん貫禄あるすごい4回生ばかりであった。現在の選手諸君の服装はどんなのであろうか。当時は袖に2本の赤い線の入ったグレーのカーデガンか、学牛服と決められており(関学はブルーに白の線)、カーデガン姿の先輩は格好良かったものであった。
 試合といえば、服部緑地のグランドと決まっており、観客もOBが数人いるだけといった状態で、西宮球場でやれる現在の選手諸君とは雲泥の差であり、試合に出ない1回生は膝を立てて声を出すだけの仕事で「楽」なものであった。甲南の上は関学だけであり、立命も京大も甲南より下に位置するといった時代であった。
 甲南アメリカンの50周年に乾杯
(中江均)


1968年 「第17回 神戸ボウル」

「第17回 神戸ボウル」

 昭和43年の正月は、合宿(掬水旅館)で明けた。1月3日の神戸ボウル(対近大)に備えて。
 試合は、甲南のキックオフで開始。立ち上がりのシリーズ、近大は着実にゲインを重ね先取点をあげる。すかさず甲南も一TDを取り返し、第lQは、8対8の同点。第2Qは甲南が先行するも、2TDを奪われ、14対24でリードされ前半終了。第3Qには2TDをあげるも、1TD取られ、26対30で依然近大リード。だい4Qディフェンスで頑張り、2度セーフティを取るが、30対30の同点。のこり5分、逆転のTDを奪い、TFPも決まり、38対30の逆転勝利。
 正月返上の合宿練習。寒風吹き荒れる磯上グランド。みんな良く頑張った。ホットなナイスゲームだった。

 ●「学習院定期戦 無念の初敗戦」
 昭和43年5月4日、駒沢補助グランド。第3Qまで6対20とリードされた甲南。第4Qに入り、2TDを取り返すも、TFPが決まらず、依然18対20と学習院リードのままゲームは終盤を迎へ、甲南は学習院ゴール寸前迄攻め入り、誰もが、このまま甲南の逆転TDと、信じて疑わない状況の中、突然、無情にもゲームオーバーのホイッスルが、なった。最後のプレイは中央突破、開いていない穴に向かって、足踏み続ける石田の姿が…、26年前のあの姿が、今でも目に浮ぶ。過去、無敗の定期戦、絶対に勝たねばならない学習院。荘然とて誰も口を開かず、原宿の神宮橋旅館に引き上げた夜、熱を出され布団の中で捻っておられた大野監督。悔しい。今でも思い出す度に悔しい。4年間で一番悔しい思いをした一日だった。
(橘 弘)


1969年 「部員数の減少に悩まされた4年間」

「部員数の減少に悩まされた4年間」

 私達は4年間、歴史の中でも弱い時代を経験してきた。何故弱いのだろうと悩み、暗い経験の中で人数も少なく苦労続きまでたが、嬉しいことは残っていた人間が皆甲南フットボールが好きで4年間やってきたということです。
 ただ私達の時に最下位にだけはなりたくないと思い、やってきましたが、後輩達に上位進出の夢を託すためにも現有部員数(14人)の倍を目標に部員の獲得に躍起になっていました。それには私が1年生で入部したとき4年生から2年生まで、各学年に8人くらい常時メンバーがいたことの記憶が頭にあったからです。その記憶により練習の気合いの入れ方も違っていました。
 私達の4年間は弱体化による部員数の減少という悪い方向へ進んでしまいましたが、そんな状況であっても私達のひとり一人が「今に見ておれ。そのうちに笑えるくらいになってやる。」と、そんな意地で仲間意識の結束を強く感じていました。個人的に努力も方法が間違っていたのではないかと迷い考えながらもやってきました。
 私の一番の喜びは今の後輩達が当時のどん底から這い上がってくれたことです。これからはディフェンスの強いチームが強くなっていくようです。また、例えばパンター・キッカーなどスペシャリストの養成が必要になってゆくと思います。これから甲南もディフェンスがもっと強化し、自分のやるべき仕事に徹し努力して下さい。甲南フットボール部はもっと強くなります。そして私達の夢「甲子園ボウル出場」を後輩達に託します。
(武智要三)


1970年 「振り返れば厳しい中にも楽しく貴重な4年間」 2部リーグが「近畿学生リーグ」に改名 入替戦が始まる

「振り返れば厳しい中にも楽しく貴重な4年間」

 入学した年はいわゆる大学紛争の嵐が吹き荒れた年でした。母校も一部の過激派が騒いで一時は大変でしたが、我々フットボール部員は体育会の一員として大学の自治を守りながら、混乱を収めるため持ち前の体力を活かして頑張ったことを思い出します。
 フットボールの人気もいよいよ高まり、関西アメリカンフットボール協会に登録されている学生チームも20校に達し、また全体のレベルも上がってきました。もちろん最終的な目標は一部リーグ優勝の二文字ではあるが、現実は何とか入れ替え戦は免れたいという厳しい状況の最終シーズンでした。結果は2勝5敗の6位、何とか面目は保てたかというところでしょうか。
 特筆すべきはキャプテンの上野君がベストイレブンに選ばれてライスボウルに出場、大活躍したことです。結果もオール関東に28対6で快勝、大いに溜飲を下げることができました。
 4年間を振り返ると厳しい中にも楽しく貴重な4年間であったとつくづく感じます。入学したときには20数名いた同期生が、卒業するときにはわずかに5名、いかにハードな練習であったかは、皆さん御存知の通りですが、長い人生でこの経験は肉体的にも精神的にも今まで又これからも大いに役立つことを信じています。それから素晴らしい先輩、同期生、後輩と知り合えたことも。
(嘉納秀一)


1971年 「4回生の時の思い出 関西リーグ2位」

「4回生の時の思い出 関西リーグ2位」

 甲南大学のアメリカンフットボールチームに大勢の部員数が揃いだしたのは、この時期からです。とにかく4回生がプレーヤー4人、マネージャー2人の計6人だったので数多くの部員を集めないことには関西1部リーグの激戦を戦い抜くわけにはいきませんでした。勧誘活動も功を奏し、春の練習前には新入生から4回生も合わせて60人程度になっていました。部員数も多くなったことから、春の基礎練習は例年になく活気があったことを思い出します。当時練習は本学グランドで行っており、タイヤ引きや人を肩で担いでグランドを一周したり、裏山を駆け上がったり、御影の神社まで往復ランニング等で汗を流しました。とにかく春は、経験を積むことを第一に数多くの練習試合をしました。(しかし新入生の入部前の関西学院との練習試合第一戦は負けたものの、試合内容にはしっかりした手応えがあり、残っているメンバーに力があるのを感じていました。)
 4月の西日本大会において全大阪大学に12対26で負けましたが5月からの早稲田大学、大阪経済大学、学習院大学、青山大学戦と次から次へと連破したのです。いいムードで夏の合宿に入り、汗と涙の苦しい、厳しい練習をしました。我々の夏の合宿は甲南大学の広野グランドにある合宿所で行いました。当時は周りには何もなく一面の林で、名マネージャー後川の管理の下、抜け出すにも抜け出せない(良い?)合宿所でした。合宿の帰りに4回生で暗い夜道を広野駅まで歩いていると、流れ星が見え誰が言ったのか「願い事をするといいことがあるよ!」みんなはそれぞれの思いを胸に夜空を眺めていました…私は「けが人がなくベストの状態でリーグ戦に入れますように!!」苦しかった合宿の帰りに、この様なことがあり、この時のみんなの笑顔を思い出します。
 リーグ第一戦(関西大学)夏の合宿で猛練習をした石崎監督発案のボックスフォーメーション(オフェンス)、7・1(ディフェンス)で関大と接戦の末、創部以来の大勝利をおさめたのである。この試合後、関大の部員が全員丸坊主になったのは有名な話である。第2戦の関学戦も勇んで戦うも力の差があり負けてしまう。しかし次の京大戦では22対12で勝ち、甲南チームに実力がついている証明となり、チームの自信となった。ディフェンスの7・1から5・3、5・3から7・1の動きに磨きがかかり、スナップの速さでは関西リーグでも1、2のセンター末永から繰り出されるボールは、ラグビー出身の主将北村、杉本両バックスを軸としたボックスフォーメーションでおもしろいように進み、そしてパスキャッチの名手エンド副将藤本へのショートパス、ミドルパスもよく通り、同志社大、桃山大、近大と大勝利をおさめることができました。特に近大のオフェンス、ディフェンスは甲南のフォーメーション対応に大変苦労をしていたのを思い出します。関西一部リーグ2位でリーグ戦を終了することができ我々4回生一同ほっとしました。こういう私も1年間みんなの支えで関西学血アメリカンフットボール連盟の委員長を務めることができ、思いがけず協会から学連活動に関して表彰され記念のトロフィーをいただくことができました。しかし我々4回生が何よりも嬉しかったのは、3回生以下数多くの優秀なすばらしいメンバーを残せたことでした。
(鈴木 克仁)


1972年 「新しいフォーメーションも消化不足」

「新しいフォーメーションも消化不足」

 脳震盧を学生時代に6回、卒業後クラブチームで4回、計10回経験し現役を退くことにした。今でも都合の悪いときには都合よく(時には意識的に)記憶が薄れることがある。そのとぎれとぎれの記憶をつなぎ合わせ20数年前を思い起こしてみた。
 前年(昭和46年)は攻撃体型はボックス、守備体型は7-1で台風の目となり快進撃を続け、最終成績関西学生リーグ2位となった。卒業生も4人と少なく今年こそ夢の甲子園へと夏合宿から打倒関学を目指し、新しいフォーメーション:アーミー、ネイビーに取り組み初戦の近大戦に突入した。しかし試合は何もかもがうまく行かず、浮き足立ってしまい、新しいフォーメーションも消化不足だったのか、力を出し切れないままいつの間にか終わっていた。あっという間の試合であった。結果は0-38の大敗で今思い出しても最も印象深い試合のひとつであった。
 でもまだ甲子園への夢は消えていない、残り全部勝てば甲子園に行ける、と自分自身に言い聞かせ、監督、ヘッドコーチには甲子園に行かなければ丸坊主になることを約束し、その後の試合に臨んだが結果は関学(12-56)、京大(6-14)と負け、結局4勝3敗の3位に甘んじてしまった。お陰様で卒業写真は全てが丸坊主であり、今では思い出深い懐かしいアルバムとなっている。
 同期生は12名であったが10数年前に副将であり、小柄ではあるが筋骨隆々として手が大きい山村將博氏が他界していることは今もって信じがたく、まことに無念である。
(金本正明)


1973年 「リーグ最終戦で会心のオフェンス チーム全員での勝利」

「リーグ最終戦で会心のオフェンス チーム全員での勝利」

 昭和48年11月23日12時、西宮球技場。対戦相手は、関西大学。我々四回生は、最後の試合に挑んだ。
 昭和47年12月に新チームとなり、我々はスタートした。46年二位、47年三位と関西で上位をキープしたメンバーがオフェンス、ディフェンスともに大量に卒業し新チームは誕生した。春は白紙の状態からチームの基礎作りとなり数多くの試行錯誤がなされたが、良い結果を得ることはできずに秋のリーグ戦へ突入。秋のリーグ戦までに公式戦で勝利したチームは、学習院大学のみ。不安材料のみのリーグ開幕であった。
 リーグ第一戦、桃山学院第4クォーター残り2分でまさかの敗北。以後、近大、京大と善戦するも敗北。OBより二部落ちを心配する声も聞え始めた。追手門大に勝利したものの、阪大とは引き分け、最終の関大戦に我々は臨んだ。
 関大は4勝2敗(3位確定)、甲南は1勝4敗1分、経過を見れば負けて当然の相手であった…。
 試合当日、我々にはプレッシャー・気負いはなかった。それより四年間甲南でフットボールが出来た満足感で一杯であった。そして、KICK 0FF。今迄、タイミングが合わなかったオフェンスが次々にファーストダウンを獲得。RB川原が、江藤が、久次が、エンド大橋がタッチダウンを重ねる。石崎監督と春から取り組んだシステムが最終戦で開花した。四年生も一年生もない「全員スタートメンバー」のシステムが完成したのは、最終戦であった。
 リーグ最終戦の勝利。この勝利は、石崎監督、コーチの方々、3年、2年、1年、チーム全員が、卒業する四年生への最高の送り物であったと確信し、感謝しています。
(山本 智之)


1974年 「悔やまれる勝つべき2つのゲーム」 愛称「RED GANG」命名

「悔やまれる勝つべき2つのゲーム」

 1974(昭和49)年の前年度は2勝5敗1分けで5位となったものの戦力的には心配することは何もなかった。
 2年前の金本主将時に採用した5-2-4ディフェンスにも慣れ、またトリプルオプションの「ウィッシュボーンT」を採用、夏合宿から本格的に練習を開始した。ラインメンバーはG由淵、鎌倉、T井上(洋)、田端、E自良、C村上を擁し3年生の橋田、泉、またバックスは湊、山田などのRB、WR岩崎、QBには沖田、LBには笹木、丹羽。総勢50名のメンバーが3部練習の夏合宿を乗り切り秋季リーグに臨んだ。
 結果的には3勝3敗1分けの4位という成績で終わったが、勝つべきゲームを二つも落としたことが悔やまれる。「甲子園ボウル」を目指しながらも「四天王」を擁する関学には「負け」を覚悟していた。しかし、同タイプのオフェンス・ディフェンスを使っていた京大には少なからず勝利を期待していた。三原ヘッドコーチの発案による5-3ディフェンスは京大のラン・パスプレーを封じ込めた。試合を決定付けたのは3Q予測もしなかったQB中川のQBカウンターであった。負けはしたものの悔しさはあったが、満足感はあった。
 反対に、桃山学院大では戦前の予想を覆し終始波にのれず大敗を喫した。実力的に比べて、ものにならないものを持っていたし、一般的にもそう思われていた。ミーティングでオフェンス・ディフェンスに関係なく「ベストメンバー」で行くと話があった。それはゲーム途中もしくは後半から行くのが常識である。しかし、ゲーム当初からその「ベストメンバー」であった。本来のオフェンス・ディフェンスであれば難なく勝てたが最後までペースを掴めず本来の力を発揮できなかった悔やまれるゲームであった。また関大戦では雨中のゲームとなり一進一退する展開であった。雨の中ではオプションは不利で注意しなければピッチは出来ず、自ずとプレーの種類は限られる。終了前、関大はフィールドゴールを試みるがわずかに外れ引き分けに終わった。この二つのゲームからプレーするものとコーチするものとの息が合わなければプレーヤーの本来の力を引き出すことが出来ず、その場の思いつきでは決して勝てないことを身を持って知り得た。
 今ではプレーヤーも多くコーチングスタッフも充実しており以前のようなことはないと思うがプレーヤーは常に120%の力を発揮することを念頭におき練習してほしいし、コーチングスタッフは戦略・戦術を考えてほしい。それをすることで甲南大アメリカンフットボールの歴史を変えてくれることを信じております。
(久次明裕)


1975年 「創部20周年を迎える 知将石崎英一監督から猛将三原昭夫監督へ」 20周年記念大会@甲南大学グラウンド

「創部20周年を迎える 知将石崎英一監督から猛将三原昭夫監督へ」

 長らくお世話になった、S41の石崎氏より同期の三原氏へ監督が引継がれた。この4年の先輩には、栫氏、西島氏、川口氏がおられ、私どもに取って、最もお世話になった年代であり、先ずご指導に対し御礼申し上げます。ただ「名将を持ってしても兵動かず」にて大変申し訳なく思っている。二年目を迎えた、ウィッシュボーンT5-2MRの斬新なフォーメイションに依っても、勝越すに至らずであった。
 関西リーグ指折りのRB久次氏(50年)の卒業は決定力不足を招いたが、湊、山田君(52年)、SE岩崎の成長で、主戦QB沖田の開幕欠場も森田君(52年)の活躍にて何とか取り繕った。ディフェンスでもNジャンボ田端氏、DT田淵氏(50年)の穴埋めに奔走しが、G泉、T酒殿も攻守に健闘した。
 LBは丹羽、笹木、橋田、DBは小南、村上君(52年)ら中心で、これにC丸谷君、DE里君(共に52年)ら経験豊富な陣容で臨んだ。今思えば、三回生(52年)に要所で特に助けられたわけで感謝している。また唯一、一回生スターターのCBジャリ森田君(54年)もヤンチャな性格でムードメイクにも貢献した。
 さて、主務石崎を紹介する。周年行事のスタートと云える、創部二十周年を本グランドで挙行し、記念0B戦では、30才以上と未満の部に分け、0B、現役共に全員参加し、夫々の家族の前での晴れ姿、ゲーム後のグランドでのパーティーと云った趣向にて、記念すべき部史の一つとした。また夏の広野合宿所からの脱出をテーマに、長駆、山中湖での遠征合宿の遂行も、0B諸氏へのカンパ活動組織部長としての彼の手腕であった。
 最後に、私どもが身近な先輩としてご指導を受けた、杉本氏(47年)、山村氏(48年)、野垣氏(49年)の故人となられた三に対し、紙面をお借りし、改めてご冥福をお祈り申し上げます。
 「戦績は 秋風身に染む 四回生」
(橋田 洋一郎)


1976年 「夢でなかった「5勝2敗、単独3位」」

「夢でなかった「5勝2敗、単独3位」」

 我が現役時代に向かえた創部20周年。本校グランドにおけるOB戦、引き続き立食パーティー。その光景は今でも忘れない。それから、あっという間に30年が経過、今年は創部50周年。初々しかったフットボール戦士も、50歳代に突入した。
 昭和48年初春、「よろしくお願いします。」と、鉾々たる上級生に囲まれての挨拶。正しく、我々が「RED GANG」に足を踏み入れた第一歩であった。燃えるような赤のヘルメット、ジャージに憧れて、念願の入部。以後、現在に至るまで、「RED GANG」との絆が切れたことはない。思えば、「RED GANG」を通じて、実に多くの方々と巡り会えた。先輩、後輩、同期、そして数多くの支援者。人生にとって、掛け替えのない大切な財産である。
 振り返れ、我々が4回生になった時、上級生が大量卒業しチームは総崩れ状態。「今年は弱い。2部に落ちる。」とスタッフ等が懸念し、それから猛練習が開始された。今の現役諸君には想像も出来ないであろう根性練習の連続。しかし、我々同期、また、当時の後輩達(現在の大岡監督も、その一人)は、それに耐えた。そのことが、各人の誇りとなり、互いを讃える結呆となって結束が高まった。しかし、夏合宿では怪我人続出。そして向かえた秋のリーグ戦。またも、初戦桃山大戦で、副将が負傷。それでも、「RED GANG」は挫けずリーグ戦を戦いきり、一部残留。先輩方に納得していただける戦績ではなかったが、全力を出しての結果。我々は、決して恥じてはいない。弱小チームを支え、鍛えていただいたスタッフ、先輩方には、30年が経過した今でも心から感謝してる。
 それにしても、「RED GANG」は、本当に強くなった。残念ながら我々は、表舞台での支援等は出来ていないが、片時も「RED GANG」を忘れたことはない。陰ながら現役諾君の健闘を祈っている。
(里 扶久男)


1977年 「何者にも優る生涯の財産を得た4年間」

「何者にも優る生涯の財産を得た4年間」

 創部50周年-我々が卒業して28年、そして我々がこの世に生を受けたときから甲南大学アメリカンフットボール部の歴史が始まった事になります。
 28年と言う歳月は、記憶を薄れさせるには十分ですが、4年間の「思い出」を辿ってみたいと思います・
 希望と苦しみの一回生-気が付つけばそこは家だった本学裏の神社で新入生歓迎コンパ、地獄の苦しみの夏合宿、しかし秋期リーグ京大戦での久次主将の約40ヤード(だったと思う)独走のタッチダウン-ウイッシュボーンTからのHBダイブには感激しました。
 二回生-悔しさの近大戦-夏合宿は初めて広野合宿所を脱出し、山中湖で。玉川学園のテニス部の女子高生と同宿で、練習は厳しかったですが…楽しかった!
 そして秋のリーグ戦、3勝3敗で引き分けても3位で迎えた最終戦の対近大、タイムアップ間際の逆転タッチダウンのはずがタッチバックになり敗戦、大声で泣いてしまいました。ENJ0Yそして充実の三回生主力スタンディングメンバーの卒業にも拘わらず、丸谷主将の下、夏のオフも2週間に短縮して秋のリーグ戦はなんとか3勝する事が出来た。
 4回生には色々と御迷惑を掛けた問題児の多かった我々でしたが、充実していた1年でした。
 そして屈辱の4回生-卒業生も少なく、故長手氏も指導陣に参画、里先輩のデイリーコーチと期待された年だったが、終わってみればリーグ戦は最終戦の対追手門大の勝利のみの1勝6敗、そして甲南史上始まって以来の入替戦…対愛知学院大それも2本先制され、ひやひやの勝利で関西学生リーグ残留、4年間で最悪で悔いの残るシーズンになってしまいました。
 つらく、楽しくそして苦い4年間でしたが、何よりも得難い友を先輩を後輩をそして思い出を得る事が出来ました。これは何物にも優る生涯の財産です。
 甲南大学アメリカンフットボール部 万歳!!
(杉田 智則)


1978年 「屈辱の1年であった1978年」

「屈辱の1年であった1978年」

 我、アメリカンフットボール部の歴史の中でも、最悪の一年と云えるシーズンを送った1978年。4年生が4人という状況で2年生、1年生の成長、補強が急務であったが、春、夏を過ぎても、全体のレベルアップがはかれず、不安だらけで突入した関西リーグ戦。前年に三原ヘッド・コーチより栫ヘッド・コーチにバトン・タッチされ、UBに岡村(2年)、TBに新井(3年)と両名、180㎝、70㎏の重量バックスに活路を見い出そうとプロI隊型で臨んだりーグ戦であったが、思うような攻撃が出来ず、あせりばかりが目立ったプレーにて自滅ぎみなシーズンとなった。
 そして、神戸学院大学との入替戦でも全く良いところがなく敗退し、部史にキズを残すような結果は、我々上級生4年生の大きな責任であり、2年生、1年生にあの時、もっと自信を付けさす指導が出来なかったかと、今なお、悔やまれる一年であった。
(相武 利尚)


1979年 「二部リーグ降格しての最初の1年」

「二部リーグ降格しての最初の1年」

 何と言っても、一番つらかった事は、二十有余年守ってきた一部リーグから二部リーグヘと降格しての最初の年ということで、周囲の目、特にOB諸先輩方から送られるエールに是非とも答えなければならないという重圧でした。
 四回生から一回生まで一丸となり春季、秋季を通して頑張ってきたにもかかわらず、最終の神戸大戦で四回生の就職活動とも重なって試合当日も満足な人員を確保できずに試合に望んだことが今でも悔まれます、近頃では就職活動も四回生になると同時に行なわれているようですが当時は、ほとんど9月からということで、秋季リーグと同時スタートになり満足に練習ができなかった事が残念です。
 自分の中では、春の定期戦で関学を破った青山学院に完勝し、チーム内の雰囲気、まとまりもよく、自他共に秋は即、一部返り咲きになると確信していました、結局はその年から長い二部リーグでの生活になってしまったわけですが、今、後輩たちのすばらしい活躍を見て歓び一杯です。
(新井 康司)


1980年 「25年間逃れられないあの幻影」

「25年間逃れられないあの幻影」

 神戸学院大学のQBから投げられたパスが鮮やかな放物線を描き、WRの胸元に入っていった、その時、誰ももう甲南のディフェンスは彼を追うことは出来なかった。
 僕は今でも信じている。少なくともあのパスが、彼が一年間を通じて投げたパスの中で最高のパスであった事を。僕がビデオでスカウティングし、チーム全員で何度も見てきたプレイの中に、あれを越えるパスは一投もなかったはずだ。
 ゲームは劇的なフィナーレを迎えるはずだった。終了4分前を切ってからの、神院大自陣深くのパントを、3回生阿倉(現監督)の魂身のブロック、意気上がるオフェンスは怒涛の攻撃を続け、ついにはRB岡村の中央突破で逆転TDをあげるに至った。ゲームはそのまま18対14でファイナルを迎えるはずだった。
 時間から見ても最後の、神院大オフェンスは静かに幕を開け始めていった。このQBには、パスはない。恐いのはオプションプレー。案の定ランプレーでファーストダウンを奪われ、そして甲南ディフェンスのパーソナルファールでまたファーストダウンを奪われる。我がチームはたまらずに、タイムアウトをとるが、主将中沢の眼がいつもと違う。血走った眼で大野監督の指示も耳に入っていないようだ。少しづつ、そして確実に、流れは神院大の方へ傾いている。
 ビッグプレーが欲しい、この流れを断ちきる、ファンブルリカバー、インターセプト。時間はあといくら残っている、様々な思いの中でゲームは再開された。
 一体、何プレーめかは憶えていない。憶えているのは、あの鮮やかな放物線を描いていったロングパスがSF岡村の頭を越え、レシーバーの胸にすいこまれていくその瞬間。その瞬間で、僕達の甲南フットボールは止まっている。15年が過ぎた今も。一体いっになれば、僕はあの幻影から逃れられるのだろうか。
(西森 豊朗)


1981年 「卒業後に解ったこと」

「卒業後に解ったこと」

 我々四年生四人のみが一部を知っており、三年生以下は2部しか知らない、今年なんとかせばならないという意志の下に始動した。しかし、現実の姿として新人生を加えて、30名前後の人数での練習であり、効率的な進行どころではなく、誰もが一人何役も兼ねて、プレーする事を求められた。また一度グランドに入いると最後まで休めずに動き続ける事を強いられる者もいた。一日の練習は、ただ耐える事のみを体に覚え込ませる様な物となり、プレー自体も単純にして単調な組立でありファンダメンタルの手前の状態であった様に、今だからこそ思える。相手チームに勝つ為には全て、オードーパワーでありオーバースピードであるマンパワー対抗であった。確かに優れた持久力を備えたプレイヤーも生まれ、プレー自体も精度アップされていった。ところが、肉体的には各個人が思っている程鍛えられていない事が、リーグ戦が始まるとあからさまに姿を現わして来た。負傷者が出だすと、一度に4つのポジションを失い、その状況に付け焼刀ではあるが、人をあてがう事に終始した練習内容になり、プレーが単純である為に、尚更にマンパワーのずれを生じ、オフェンスではタイミングが合わなくなり、最終的には、攻守を切換えるという頭の中での作業も停止した者も生まれた。この時期が甲南史上最も低迷した時期と言えるであろう。リーグ戦で負ける毎に、我々四人はいつも同じ事を口にしていた。「我々には何かが足りない。」そしてその何かが何であるのかさえ、整理も出来ないままにシーズンを終えていた。
 この時代が深い谷の底であり、そして、その足りない物が「選手と共にあるコーチング」であると我々が解りだしたのは、卒業後数年経ってからの事である。
(阿倉 智明)


1982年 「忘れることが出来ない 悲しくつらい思い出」

「忘れることが出来ない 悲しくつらい思い出」

 今年こそは、入替戦に出場し4年振りに一部リーグに復帰するぞという気持ちを抱いて、そしてこの年から石崎監督を迎え、ボックスというオフェンスフォーメーションを採用し、臨んだ昭和57年度でした。4回生は7名ではありましたが、各ポジションに散らばっており、新監督を迎え、三宅主将以下部員一同は、やる気満々で新チームをスタートさせ、寒風が吹く広野合宿所で春合宿を順調に済ませ、甲南大学南グラウンドに場所を移して練習していたところ、タックルの練習中に当時2回生の出雲井善旗君が倒れて、そのまま入院し4月22日に亡くなられた事が、今でも忘れる事が出来ない悲しくつらい事でした。その後、東京遠征も中止し、約1ヶ月程休部し、そして練習再開しましたが、部員一同、出雲井君のフットボールにかける情熱を胸に抱きながらやる練習で、チームは以前にもましてまとまりが出来て、燃えるものが感じられました。
 こうして迎えた秋の近畿リーグ兵庫ブロックですが、第2戦の八代学院大戦では、思わぬ苦戦をしいられ第4Qになってやっと逆転勝利できたという展開の試合でした。誰もがもうダメかなと思った程あぶないゲームを勝てたので、当時の部員は今でも忘れることができないゲームのひとつであろうと思います。そして最終戦、やはり神戸学院大との優勝決定戦となったのですが、両校持てる力を出し合い結局引き分けとなり両校兵庫ブロック優勝となりました。そして、再び入替戦トーナメント出場への代表決定戦で神戸学院大と戦い9-3という惜しい負け方をしましたが、実力的には差はなかったと思います。唯その時に限り勝利の女神が我がチームに微笑まなかったのだと信じております。最後に今後の甲南大学フットボール部発展を心から祈っております。
 10年目の追伸
 40周年史を書き終え、早や10年という歳月が流れ、私自身この10年間で事ある度にレッドギャングでの4年間を振り返り今更ながら、我が人生におき、かけがえのない貴重で人間の一生が凝縮された4年間であったと大切に思っています。また、40周年史にも書きましたが、出雲井善旗君、貴方の事は、毎年春になれば思い出します。当時の我々部員の胸の中には、一生いつまでも貴方が微笑んでいます。あらためまして御冥福を御祈り申し上げます。
 最後に、現役選手諸君、我々OB達を一部リーグの競技場に連れて行って下さい。
(張田 忠雄)


1983年 「出し切れた最高の力 今日への着実な課題」

「出し切れた最高の力 今日への着実な課題」

 2部降格以来5年、今一歩の所で涙を飲んでいた我チームは、新チームの目標を入替戦出場はもちろん一部復帰する事、その為には、前年2部降格し同ブロックに所属の岡山大を破る事に置いていた。戦前予想では攻撃力不足から不利との声もあったが、酒井賢を中心としたディフェンスが踏んばり、16-12と勤差でものにできた。続く目標の入替戦トーナメント最終戦の大経大戦にすべてをかけて臨んだが、前半一進一退0-0で折り返したが後半第3Qに2TDをめられ、第4Q終了間ぎわに木村司が涙のTDパスを決めたが、時すでに遅し6-12で敗れ、また今一歩の所で涙を飲んでしまった。しかしこの1年着実にランクアップをし、当時としては最高の力を出し切れたのではないかと思います。
 今、振り返ってみて、リクルート活動から始まり、部員も50名近くになり、大型選手の育成もでき、今日一部復帰を果たし、また定着への着実な課程であったと思います。
(夜久 正人)


1984年 「皆で悩み、トライしたことは我々の誇り」 UKデキャル作成 学習院戦で披露

「皆で悩み、トライしたことは我々の誇り」

 創部50周年、そして我々が卒業し20数年がたつ。甲南フットボール部50年にあって、我々の代は、一部リーグを経験することのなかった低迷の時代であった。
 また同時に練習方法、チーム運営についても、ちょうど旧の伝統の力が消え、試行錯誤の時代であったと思う。
 体育会的精神論的練習、近代アメリカ的合理性を重んじる練習及びシステム、それぞれに良い点、悪い点がある。
 我々はそのどちらかに進もうか、またどの様にミックスさせるべきかを悩みそして結論を出すことはできなかった。
 しかし、皆で悩み、トライしたことは我々の誇りである。
 100名を超える部員数、スポーツ入学制度、我々の経験しなかった状況にある現役達も、また新しい悩みを持ちトライすることだろう。せいぜい悩み、チーム一団となりチャレンジするといい、そしてまた新しい甲南フットボール部の伝統を作っていってほしいと願います。
(藤倉 智志)


1985年 「遠い花火のように・・・」 30周年記念式典@宝塚ホテル

「遠い花火のように・・・」

 創部50周年おめでとうございます。
 思い起こせば私達が4回生の時に30周年記念パーティが開かれました。私の父が父兄の皆様を代表する形で挨拶をさせていただき、当時最も強かった京都大学と比較し、「京大に何故負けるんだ、京大が3時間練習するなら甲南は6時間しろ!!」と檄をとばしていたのが懐かしく想い出されます。
 あれから20年。時がゆっくりと経過したのか、それとも矢のように過ぎたのか、自問しても答えが出せません。
 ただ、あれから20年。40歳を少し過ぎた今、あの4年間が自分の人生にかけがえの無い無二の時間であったことを確信しております。
 私にとっては故郷神戸を離れた20年でありました。初めて実質的に社会と向き合い、慣れない東京での生活をスタートさせたあの頃から、いつも心にあるのは南グランドで過ごした4年間の事でした。
 長い東京生活の中で私はある風景と出会い、その場所が好きになりました。
 普通地下鉄の駅というものは地下にあるものですが、丸の内線の四谷駅は地上にあります。
 四谷駅を赤坂見附方面に向かって電車が走り出すと、すぐにまた地下へのトンネルヘと車両を滑らせていくのですが、トンネルの直前、その風景とは出会えます。
 進行方向左手に上智大学のグランドが見えます。テニスコートの隣りにゴールポストのあるエリアがあり、フットボール部員達が汗を流している光景を目にする時があります。
 眼下で躍動する金色のヘルメットが我が甲南の赤いヘルメットに重なり映った瞬間、こころは時空を超えてあの日の南グランドに飛んでいきます。夏の太陽の下、グランドの中にキラッと光る金色のヘルメットを見たとき、夕日が沈む中で楕円のボールを追いかけた赤いヘルメットに想いを馳せるのです。
 この20数メートル、ほんの5秒ほどの間、かれらの姿を見ながら、自分たちのあの頃の姿がフラッシュバックしてくるのです。心が躍り、安らぐ瞬間です。
 あれから20年、何をして何を残してきた時間だったのでしょうか。自問しても答えが出せません。
 しかし私たちは20年前、たしかに神戸にいました、南グランドで汗を流していました。若さと溢れる情熱で仲間たちと切瑳琢磨する自分がいました。
 この20年の間にある、時間、距離そして変化の向こう側で、それはまるで遠い空に打ち上げられた花火のように切なく、儚く、だからこそ、ひときわ鮮やかで大切な記憶として、いつまでも忘れることのない煌きとなっております。
 あのころの閃光の輝きが私たちの人生に彩りと勇気を今もこれからも与え続けてくれるのです。
 創部50周年にあたり、当時ご指導頂いた石崎監督をはじめコーチの方々、諸先輩、後輩たち、現役生、同期生、関係者の皆様に心から感謝申し上げます。
(細谷 修平/土屋 豊)


1986年 「悲願達成、涙の1部リーグ復帰」 六甲アイランドグラウンド施設誕生

「悲願達成、涙の1部リーグ復帰」

 11月29日、神戸総合運動陸上競技場。リーグ戦および入替戦出場トーナメントを制して2部の頂点に立った我々は、念願の1部復帰を果たすために、大阪大との入替戦にのぞんだ。近畿学生リーグに降格以来、実に8シーズンにわたり2部リーグの悲哀をなめてきただけに、この大一番での勝利が4回生のみならずチーム全員のこの1年間の最大の目標であった。試合は、両チームの意地とプライドがかかった白熱したゲーム展開で、一進一退の攻防が繰り広げられた。7-3のリードで迎えた第4Q、残り2分、大阪大は逆転の望みをのせロングパスを投じた。しかし、ゴール前の3ヤードの地点で、レシーバーに競い勝ち、これを見事にインターセプト。攻撃権を奪い取り、残り時間をオフェンスが使い切った。スタンドのカウントダウンの歓声がゼロを告げた瞬間に悲願であった1部復帰の夢はかなえられた。
 振り返れば、長くそして辛いシーズンであった。1部復帰を目標に新チームはスタートしたが、チーム作りは試行錯誤の繰り返しであった。我々4回生は、何度となく夜遅くまでミーティングを行った。春の公式戦や定期戦、練習試合では、満足行く結果を得ることはできなかった。ファンダメンタルの強化とチームのシステム作りに焦点を当て、夏合宿を終えたころより、徐々にチームとしての形ができ上がっていった。9月には、六甲アイランドにグランドが完成。10月には、過去のリーグ戦で何度か苦杯をなめさせられた宿敵岡山大との全勝対決を敵地岡山で制し、チームの勢いが加速した。そして、入替戦での勝利。秋のシーズンは、1度も敗れることなく終えることができた。これは、部員全員が1つの目標に対し、強い信念を持ち、苦しみを乗り越えたことにより手に入れることができたのである。
(堀内 賢治)


1987年 「念願の一部リーグでの戦い」 後援会発足 イヤーブック創刊 激励会の開催始まる

「念願の一部リーグでの戦い」

 八年ぶりの一部リーグ復帰となった昭和六十二年のシーズン。もちろん我々プレーヤーにとっては初めての桧舞台である。その年、全国的に四回生はタレントが豊富で、前年の学生チャンピオンである京大の東海、若林、屋敷や関学の堀古、真弓、関東でも日大の佐藤や明治の渡辺など一時大を築いたキラ星のような選手がたくさんいた。ある意味で今のフットボール人気を決定づけた一年であったかもしれない。そんな晴れやかなフィールドでプレーできるとはまるで夢のようで、私たちの胸は期待と闘志でいやが上にも高まっていた。
 夏合宿を乗り越え、迎えたリーグ初戦。宝ヶ池球技場での京大戦は相手の胸を借りるつもりで精一杯戦ったが、結果は63-21の完敗。でもムードはそんなに悪くならなかったと記憶している。その次のゲーム、関学戦。我々にとってはこのゲームのほうが印象深い。前年優勝チームである京大に勝つよりも関学を倒すほうが価値がある。まだ一度も勝ったことがないチームへのライバル心から私達はそんな風に考えていた。前半のファーストドライブを掴んだ甲南はラインプレーが力強く進み、みるみるゲインを重ねていった。が、途中インターセプトを喫しチャンスを潰してしまった。今思い出してもあのワンプレーが悔やまれるのは私だけではないと思う。その後、一進一退の攻防が続き前半2本のTDを許してしまったが後半序盤にTB伊東君のスイープパスとセイフティで9-14まで詰め寄った。その時、みんなが「今日こそは勝てる」と思った。しかし、最終クォーターに17点を取られて私達の関学戦は終わった。その日ばかりは、ゲームのあと涙が止まらなかった。何が悔しいと言ってもう二度と関学と戦えないことが残念でならなかった。
 結果、二勝五敗で六位の成績でリーグ戦は終了したが、最後の入替戦に出てしまったことだけが余計であった。でも好きなフットボールを十二月まですることが出来たので今となればどのゲームも楽しい思い出になっている。
(稲川 裕一)


1988年 「流れを変えたひとつのプレー」 「関電フラッシュボウルシリーズ」が始まる

「流れを変えたひとつのプレー」

 攻守スターターの大半を卒業生で失った昭和63年のシーズンは、春先から苦しい戦いの連続であった。一部校とのオープン戦には全て敗れ、春季最後のゲームであった神戸大戦は0-41の完敗であった。このままでは入替戦も覚悟せねばと部員全員がかなりの危機感を持っていたように思う。
 そういった不安を抱えながら夏合宿、二部練習を経て本番である秋季リーグ戦へと突入していった。初戦は関学に大敗を喫し、次の京大戦も乱戦の末敗退した。3戦目の神戸大戦は春の雪辱を果たしたが、次の立命戦は破れ1勝3敗とこれ以上負けると入替戦を余儀なくされる展開となった。
 そこで大体大戦を前に異例のシーズン中での合宿を行うこととなった。その期間は練習内容も充実し、チームの雰囲気も盛り上がってこのままで行けば次の試合は必ず勝てると皆が感じていた。
 そしていよいよ大体大戦の日がやってきた。試合は我々の思惑通りQB金君のランプレーを主体に第2Q途中で21-7とまったくの甲南ペースで進んでいった。しかしこの後、ひとつのプレーをきっかけに試合の流れは一変した。大体大のファーストダウンを狙ったパスがWRの選手に吸い込まれた瞬間、DBの橘高君が渾身のタックルを見舞った。ものすごい衝撃が走り、場内は騒然となった。大体大の選手は気絶していたがボールは離していなかった。素晴らしい集中力であった。しばらくの中断の後、試合は再開されたが、その後は大体大のパスプレーが面白いように決まり、甲南のオフェンスはぱったりと進まなくなり、試合は終わってみれば28-56の大敗であった。ひとつのプレーをきっかけにモメンタムは一気に大体大へと流れてしまったのであった。
 その後も連敗し入替戦に回った我々は、関大に辛くも勝利を収めたが、私にとってはその試合よりも大体大戦でのあのプレー、敗戦が悔しく、また強く印象に残っている。
(久保 直哉)


1989年 「我々の悔しさがバネとなり今のチームがある」

「我々の悔しさがバネとなり今のチームがある」

 '89年度の甲南レッドギャングは総勢100名を越す大所帯でありながら、最上級生は15名と少なく、また全員がスターターでなかったため2、3回生がチームの中心を成すという若いチームであった。我々は自由闊達、自主的な雰囲気の中から下級生の押し上げを期待していたが、幹部を中心とした4回生の統率力不足でまとまりにかけた部分があったことは否めない。昭和61年の一部昇格以来、毎年接戦はするものの結果として入替戦出場を繰り返してきたため、我々の目標はまず一部リーグ中堅校としての定着であった。オフェンスでは主将のRB杉原、西宮ボウルにも出場したWR中村(元)、ディフェンスでは同じく西宮ボウルに出場のR松井、NG高原を軸に毎日厳しい練習を積み重ねた。
 春の合宿は広野グランドで、夏は部員の増加により京都で行った。合宿では練習の厳しさもさることながら、就寝中に突然「ヨーセーヨーセーホーホー」と寝たまま掛け声を出す者がいたり、雨上がりの広野グランドで歌を歌いながら水抜きをしたことなど懐かしく思い出される。
 ハードワークがたたってか多くの故障者を抱えた状態で迎えた秋のリーグ戦では、やはり甲南の永遠のライバル、関学戦が印象に残っている。ディフェンスの大健闘によりゲームは拮抗していたが、そのディフェンスの奮闘にオフェンスが応えられなかったことが大きな敗因であったと思う。第3Qで二度のチャンスがあったが得点に結びつけられなかった。ひとつは敵陣35ヤード付近での3rd down 7ydのパスプレー。キャッチはしたがアウトオブバウンズの判定であった。そのWRは「あれは絶対ミスジャッジ」と言っていた。もうひとつは敵陣20ヤード付近で4th downショート、ギャンブルでトライしたオプションを完全に読まれていて失敗したこと。ディフェンスが頑張り、いいところまで行きながら結果に結びつかなかったこのゲームが我々の秋のシーズンを象徴していたと思う。オフェンスの一員としてディフェンスのメンバーには申し訳なかったと思っている。振り返ってみればまだまだ走る、タックルするなど基礎も不充分であったし、力だけでなくミーティングなどにおいてフットボールの知識やスキルの部分でも不足していた。特にオフェンスではキープレーを確立できなかったことが悔やまれる。近大や神戸大、京産大など勝つべき、いや勝てる試合を落としたことは本当に残念である。
 長いレッドギャングの歴史の中でチームの浮き沈みはいつも付いて回るが、その中で我々の悔しさがバネとなり今のチームがあるのだと思う。今の現役やこれからレッドギャングの一員になる選手諸君、それぞれが本気(本物)になり精神面でも大人になり、そして後援会・OB会が一丸となれば必ず近い将来日本一になれると信じている。
(菱井 義之)


1990年 「再び二部へ、ゼロからの出発 引き分けで始まり引き分けで終わった1年」 Coach Mackovic来日・指導

「再び二部へ、ゼロからの出発 引き分けで始まり引き分けで終わった1年」

 前年関大に完敗、二部へ降格、石崎監督から武智監督へと交代し、まさにゼロからの出発となった。環境が変わり我々4回生は戸惑いながらも一部復帰へ目標を置いて毎日黙々と練習をしたが、春のトーナメントでは格下と思われていた桃山学院大に引き分け、抽選負けという最悪のスタートとなった。しかしそんな折り、谷本先生、湯浅学長を始めとする学校関係者、後援会、OB会のご尽力によりイリノイ大学ヘッドコーチ、ジョン・マコヴィックヘッドコーチを招聘することができた。マコヴィックコーチはわずか10日間、しかも超ハードスケジュールでありながらも一生懸命に基本的なことから教えて下さった。フットボールのコーチングに限らず、それが後の人生に大きく役立つことも。我々も聞き漏らすまいと必死だった。その甲斐あってか一緒に同行していただいた学習院大戦では完勝を収めることが出来た。選手は教えを胸に刻み込んでマコヴィックコーチとの別れを惜しんだ。
 何とか一部に復帰させようと情熱的に指導する武智監督とともに暑く厳しい夏を過ごし、秋のシーズンには大阪産業大戦こそ苦戦したものの、無事リーグ優勝を決めトーナメントで金沢大学に勝ち、入替戦に出場できる切符を得た。相手は因縁の関西大学だ。長くもあり短くもあった一年だった。絶対に勝たなければならないという気持ちで試合に臨んだ。開始直後のプレーでTD、今は禁止となったガードリバースのトリックプレーも決まるなど常に先行し誰もが勝利を確信したが、第4Qに相手のロングゲインでTD、試合終了43秒前に同点FGを決められ、規定により関西大学の残留となった。引き分けて始まり引き分けで終わった一年であった。(この試合以降、入替戦ではタイブレイク方式への変更となった) 今後も甲南大学体育会アメリカンフットボール部の発展を祈念いたします。1987ENTRANCE一同
(堀田 高章)


1991年 「入替戦…またしても夢と消えた一部リーグ復帰」

「入替戦…またしても夢と消えた一部リーグ復帰」

 前年、入替戦に引き分けて残留を余儀なくされ、再び悲願の一部リーグ復帰に向けて我々の最後のシーズンがスタートした。
 春の近畿学生選手権大会では三部リーグの摂南大との試合で控えの選手のレベルアップを図るため、レギュラーをはずして臨んだが敗北を喫し、幾多のOB諸氏や武智監督から厳しい叱責を受けたことを思い出す。それでも春の最終戦では一部リーグの強豪、立命館大との練習試合で勝利し、手応えを感じて春のシーズンを終えた。
 この年の夏は猛暑が日本列島を襲い、広島県千代田での夏合宿は例年になく厳しい合宿となった。オフェンスは4回生の副将山中、秋山、城戸を中心に大型で強力ラインを形成、QBに甲南史上でも屈指のアスリート上代、RBに抜群のスピードを持つ辻本を擁し、甲南伝統のラッシングアタックに更に磨きをかけ前年にお招きしたイリノイ大学ヘッドコーチ、ジョン・マコヴィックコーチに教わった3ステップのパスを導入、ラン一辺倒のオフェンスにバリエーションを加え、秋のシーズンに備えた。ディフェンスは目立ったスターはいないが、主将DE西村、LB西田を中心としたシュアなディフェンスを形成。いずれも4回生主体の布陣で秋のリーグ戦に臨んだ。
 初戦の京都府立大との試合は圧勝し順調なスタートを切ったが、続く龍谷大、大阪市立大戦はオフェンスが不発、しかしディフェンスが踏ん張り何とか全勝で最終戦の大阪経済大との試合に臨むこととなった。全勝同士のこの試合は会心の出来で勝利して2部リーグ順位決定戦で京都産業大に徹底的に弱点を突かれて破れてディフェンスが崩壊。入替戦に向けて不安が残る結果となった。
 入替戦の相手は5年連続で同じ顔合わせとなった宿敵関西大学。試合開始早々、関西大は関大史上No.1のRB山下次郎、北埜、山本寿の3人を並べたウイッシュボーンを使用。1Q関大が北埜のダイブで先制のTD。反撃に出る甲南は、ディフェンスが踏ん張り相手をパントに追いやると、このパントをブロックして絶好のフィールドポジションから辻本へのプレーアクションパスで敵陣深く攻め込み、最後はFB吉川のスマッシュで同点に追いつく。その後は両軍とも膠着状態で前半を終え、後半の第1プレーで今シーズンの象徴パワーオフタックルで辻本が独走TD。しかし続く関大もすぐさま反撃、ウイッシュボーンからのランでつなぎTD。だが甲南オフェンスはラインが圧倒し追加点を挙げる。しかし試合が第4Qに移ると甲南ディフェンスは負傷者が続出し防戦一方の展開に陥ってしまった。6点を追うシリーズでは必殺のスペシャルプレー、ガードリバースを繰り出し逆転したが、この後の関大に再度逆転を喫し、最後のドライブも敵陣1ヤードで辻本が止められ万事休す。またしても一部リーグ復帰はならなかった。
(梅谷 大輔)


1992年 「入替戦…総てをぶつけて、そして敗れた」 スポーツ推薦制度一期生入学

「入替戦…総てをぶつけて、そして敗れた」

 我々の学年は、経験者も体の大きな者もおらず特徴のない学年であった。しかし全員が努力家で一年ごとに成長してゆく学年であった。
 平成3年12月6日、長居球技場で行われた入替戦で関大に残り1ヤードが奪えず一部昇格が間違いないと言われたチームが敗れた。当時3回生であった我々は、全員不安な一年を迎えることとなった。なぜならオフェンスとディフェンス22人のうち19人のスターターを失っていたからである。
 このような中で迎えた春のシーズン、いい意味で開き直れた我々は小粒ではあるが主将石沢を中心にまとまりのあるチームを作ることが出来た。トーナメントでは決勝で惜しくも敗れたものの好成績で春のオープン戦を終了し、秋のリーグ戦に弾みをつけることが出来た。
 そして秋季リーグ戦初戦、昨年度優勝というおごりを捨てて常に挑戦者の気持ちで戦おうと誓った我々は、三部リーグから昇格してきたばかりの関西外国語大に引き分けた。自分たちの目標は一瞬にして消え去り三部に転落するのでは、とさえ考えた。しかし、その引き分けによってチーム内に異様なまでの危機感が生まれチーム全体が完全にまとまることが出来たと思う。2戦目からはトーナメントのようなリーグ戦ではあったが順調に勝ち進み、一度はあきらめかけていた入替戦の出場権を勝ち取った。
 そして12月8日、我々は再び長居のフィールドに立った。迎える相手は大阪体育大学、リーグを代表するRB、DLを持ったアスリート集団である。自分たちはこの一年間やってきたことの全てをぶつけた。
 そして、敗れた。結果的には1TD差ではあるが、負けは負けである。残念ながら後輩たちに一部という土産を置いていくことは出来なかった。
 負けはしたが、4年間甲南大学アメリカンフットボール部に所属できたことを幸せに思う。このチームが我々に様様な思い出を残し、そして何より大人にしてくれたからである。本当にありがとうございました。
(白羽 裕)


1993年 「入替戦勝利…やがてその自信は確信へ。自分達のフットボールの集大成」 Coach Marcin来日・指導

「入替戦勝利…やがてその自信は確信へ。自分達のフットボールの集大成」

 4年連続入替戦敗退という結果、チームに一部リーグを知るものは誰もいなくなってしまった平成5年のシーズン。我々に与えられた使命は怨念にも似た一部奪還であった。4年目の最後のシーズン、我々はお互い一部奪還を誓い合い、そしてシーズンが始まった。
 当初より「今年はいける」という声を聞くこともあったが、我々の中に個人能力で過去のチームより上回っているという意識はなく、一戦一戦に危機感を持ち戦った。実際、我々の学年にフットボール経験者は一人もいなかった。日々の練習においても自分たちの力におごることなく常に上を目指すよう心掛けた。また春に来日されたマーシンコーチのアドバイスを練習にも応用し励んだ。妥協の無さという点では過去のチームの中でもトップレベルではなかったかと自負している。
 事実、秋のリーグ戦を大量得点で勝ち進み、入替戦出場決定戦である金沢経済大戦に100-0で勝利したときも、チーム内に浮かれた雰囲気はなかった。もっとも入替戦の相手が昨年一部上位校というイメージの同志社大学であり、今までに経験したことのない相手であったというのもチーム内の雰囲気を引き締めた要因であったであろう。入替戦は敵にのまれれば絶対に負ける。自分たちのやってきたことを信じ全てを出し切れば絶対に負けるチームではないと自信を持って試合に臨んだ。
 やがてその自信は確信へと変わっていった。前半こそ僅差で折り返したが、オフェンスもディフェンスも同志社大を圧倒した。後半になりそれははっきりと点数に表れてきた。あの試合の後半のフットボールは、自分たちのフットボールの集大成であった。試合終了の笛が鳴り、49-14という誰もが想像できなかったであろう得点差を見たとき、体中が震え、涙が止まらなかった。
 一年間かけて最高のチームを作り、最高の結果を残せたという事に我々は誇りを持っている。
(山本 亮)


1994年 「この1年を振り返って」

「この1年を振り返って」

 以前、先輩が「4回生の一年は一瞬で時間が過ぎる」とおっしゃられたことがあった。今、この一年を振り返ると様様な記憶が頭の中によみがえる。一部リーグを初めて経験する戸惑いと興奮。その戸惑いの中での目標への挑戦。興奮の中での勝利への執念と固い団結。何をとっても私の心は動かされ続けた。一番深く印象に残っているのは春合宿でひとりの部員の気が変になったことだ。彼はいかにして上手になり、速く走れ、スターターの座を勝ち取りチームに貢献できるか。その事ばかりを考え本当に一生懸命頑張ったため、そのようなことになってしまった。その時私は自分が悔しく、彼に嫉妬した。自分の今まで考えていたチームに対する気持ちや意欲。向上心など全てにおいて彼ははるかに上回っていたのだ。その時、私は何としてでもチームに貢献し頑張ろうと決意した。
 チームの戦績は、春はJV戦からフラッシュボウルも含めて全て勝利。秋は二連敗と出足は悪かったが結局は3勝4敗の5位でシーズンを終え、5年ぶりの一部残留、18年ぶりの一部で3勝という結果に終わった。目標であった「打倒関学と甲子園ボウル」は達成できなかったが、主将を中心にチームワークのとれた素晴らしいチームであった。その中で過ごせたことを私は誇りに思う。
 先輩のおっしゃっていたようにこの一年は一瞬にして過ぎ去ってしまった。しかし内容があり、実にいい一年、いや4年間だった。私はレッドギャングの思い出を決して忘れはしない。
(上前 輝忠)


1995年 「受難の年。最悪のスタートとなった1995年」 阪神淡路大震災で大学に甚大な被害 Coach Marcin再来日

「受難の年。最悪のスタートとなった1995年」

 1995年は甲南大学レッドギャングにとって受難の年であったと思います。一部リーグのチームの中で最も阪神大震災の影響を受け、多くの選手やスタッフが被災しました。また震災でチアリーダーの田中舞さんが、選手やチームをいつもサポートしてくださった顧問の寺島先生、そして年末にはOB会会長の大野さんがご病気で急逝されたことは、何よりもチームにとっても選手にとっても大きな影響を及ぼしました。
 そんな最悪のスタートとなった1995年でしたが、阿倉新監督のもと環境がどうであっても絶えず平常通りチーム活動を行うという決意で我々は練習を続けてきました。秋のシーズンでは、5勝2敗以上を目標にしていました。結果3勝4敗の4位という成績で終わりましたが初戦では前評判の高かった近畿大学を破り、昨年の大学日本一、京都大学には完敗したものの、関西学院大学と立命館大学の試合では最後まで勝負がもつれる緊張感あるゲームとなり大いに相手を苦しめました。年初の不安な時期には思い及ばなかった内容のある秋のシーズンだったと感じていますが、阪神大震災の影響が逆にチーム全体の意識と結束を高め、チーム一丸となって3強崩しに取り組んだことが好結果を生んだのだと思います。目標は達成できませんでしたが、前年の5位よりも順位をひとつ上げ、確実に力はついたと自負しています。
 次の年のチームがどれぐらい強いチームになるのかは想像もつきませんが、私達の時よりもレベルアップすることは確実だと思います。しかし今年のシーズンゲームを知る選手には、関西学院大学、立命館大学戦で味わった悔しさを忘れず、そして同志社大学戦で見せた『甘さ』が決して出ることのないようなチームに成長し、是非とも3強を崩し昨年よりもさらに上を目指してもらいたいと思い、期待しています。
(石野 牧生)


1996年 「「3強の一角を崩す」を目標に」 40周年記念式典@新阪急ホテル

「「3強の一角を崩す」を目標に」

 一部リーグ復帰後1年目5位、2年目4位と着実に実績を残し、今年こそは3強の一角を崩して3位と周囲の期待が高・まる中、新チームがスタートしました。
 昨年パス獲得1,000ヤードを達成し大学フットボール界で注目選手となったQB山口、さらにオフェンスではRB塩川・WR三谷、ディフェンスではFS北詰・LB竹内ら昨年から活躍したメンバーが要所では残りましたが、オフェンス・ディフェンス共にラインメンバーが総入替となりチーム力の底上げが急務となりました。
 スプリングゲームではオフェンス・ディフェンスともに基本の徹底と若手の育成に重きをおきシンプルな戦略で試合に臨み、結果3勝8敗で春のシーズンを終えました。
 そして夏合宿において春のシーズンの結果を踏まえ、オフェンスは2年前から取り組んできたテキサス大学のシフトモーションを多様した攻撃に磨きをかけ、ディフェンスもイリノイ大学ディフェンスをベースに新たな守備体系にも取り組み、不安材料はありながらも秋のDIV1関西学生リーグに挑みました。
 ・96年9月7日(土)長居球技場 甲南大学0-17近畿大学
 前年と同じく初戦の相手は近畿大学。甲南としては今年も初戦を飾って波に乗りたいところであったが、前年の雪辱に燃える近大は主将のDB堀部がQBとして登場。意外なオプション攻撃に甲南ディフェンスがアジャストできず、またオフェンスもリードされた焦りからドライブを重ねることが出来ず、痛い黒星スタートとなった。
 ・96年9月15日(祝)西宮スタジアム 甲南大学17-10関西大学
 この日はオフェンスが好調でラン・パスとも効果的にゲインを重ね、第2Q早々QB山口からWR水島へTDパスが決まり先制。第3Q関大FGで逆転を許すも、終了1分36秒前に桧垣のFGで同点に追いつき、その後の関大攻撃でDB楠田が会心のインターセプト。ゴール前10ヤードのチャンスをRB横山が右ブラストでエンドゾーンへ走りきり鮮やかな逆転勝利を飾った。
 ・96年9月28日(土)西宮スタジアム 甲南大学6-32関西学院大学
 毎年最も甲南サイドの応援席が盛り上がるKG戦。近年は途中までいい勝負を続けているだけに今年も多くのOBやファンがつめかけた。試合は立ち上がりリズムに乗れずファンプルなどのミスを連発した関学から2本のFGを成功させ、3点リードで前半を折り返した。しかし自力で勝る関学がRB花房を中心に得点を重ね、終ってみれば大差を開けられてしまう完敗のゲームであった。
 ・96年10月10日(祝)長居球技場 甲南大学24-7同志社大学
 1部リーグの生き残りを意識した緊張感の高まるゲームとなった中盤戦。お互い負けることの出来ないゲームとなったが、甲南はランプレーでリズムを作り同志社はQB山田のパスで応戦し、前半は7-7の同点で折り返した。後半同志社QB山田のパスを甲南DB陣がインターセプトを連発し、そのチャンスを甲南オフェンスが効率よく得点に結びつけ貴重な2勝目を上げた。
 ・96年10月26日(土)宝が地球技場 甲南大学9-55京都大学
 昨年の学生チャンピオン京大との一戦は「フットボールはライン」ということをあらためて知ることとなったゲームであった。開始早々からQB杉本のランが爆発。1Q2本ずつTDを決められ、3強の壁の厚さを痛感する結果となった。
 ・96年11月9日(土)西宮スタジアム 甲南大学17-43立命館大学
 3強との対戦の最終戦、甲南大学はQB山口→WR水島への52ydのTDパスで先制。しかし天才QB東野率いる立命館オフェンスがWR下川、RB杉山など安定したドライブで着実にTDを重ね、甲南もWR三谷の活躍などで2TDを上げるも自力で勝る立命館に大差で敗れた。
 ・96年11月23日(祝)西宮スタジアム 甲南大学34-53大阪産業大学
 負ければ入れ替え戦の出場もあるという大事な最終戦。少人数ながら鍛え上げられた大産大は終始ゲームをリードし、蹴ったパントはわずか2回あとはすべて得点に結びつけられるという屈辱的な結果となってしまった。甲南オフェンスもここ一番で踏ん張れず、総獲得ヤードで上回っていながら大差で破れてしまった。
 結果的に甲南大学、同志社大学、大阪産業大学の3校が2勝5敗の同率で並び、くじ引きで入れ替え戦は免れたものの最終5位という結果でシーズンを終えました。
 そして96年秋のシーズンにおいてもまたDIV1で勝つことの難しさを強烈に教えられ、過去2年の成功体験からチームが変化し切れていないことが鮮明になりました。
 「3強の一角を崩す」を目標に1年間取り組みましたが、3戦ともに完敗で終わりすべての面においてチーム力の差を痛感し、「何をしなくてはならないのか」また一から考え直させられるシーズンとなりました。
(横山 泰忠)


1997年 「我慢の1年間、無念の入替戦」

「我慢の1年間、無念の入替戦」

「君達は、近年まれに見る最弱のチームや。」という阿倉監督の一言から、我々の一年間は、スタートを切った。
前年96年度REDGANGは、上を目指せる面子がいながら、2勝5敗のクジ引きでなんとか入替戦出場をまぬがれた。
その主力メンバーが抜けたチームの穴を、どうやって埋めるのか? どうやって、厳しい一部リーグを、戦い抜くのか?
今思えば、当時のコーチ陣そして幹部の苦悩は、相当なものであったと思う。
負傷を押し、最後まで、チームを引っ張ったDE#97主将・小田と、C#67副将・植田を中心にハードな練習の日々が続いた。
例年よりも、走りこみと長谷川さん指導の筋力トレーニンに注力し、基礎体力の向上を図った。
また、オフェンスはQB崎元(パス)&橋本(オプション)の2本立てを、ディフェンスは前年度より導入した
「HAWKディフェンス」を練りに練り、秋リーグに備えた。
初戦の近大戦前のハドルでの「俺らは、もう我慢せんでええんや。やってきた全てを、ぶつけるんや。」の植田の一言を、
今でも鮮明に覚えている。
雨の西宮球技場で、FB#44桧垣を、オフェンスがエンドゾーンに運び込んだが、TDを取り消された。
あれはミスジャッジだと、今でも思えてならない。 近大にモメンタムを持っていかれ、そのまま敗退。
その後、チームを建て直し、その年に京大を破り、勢いに乗った神大を破るも、2勝5敗でクジ引きにより入替戦出場が決定した。
入替戦前の練習は、緊張と興奮の中で、自然とハードになり、怪我人が続出した。
対戦相手は、同志社大学。前半は、甲南がリードし、23対6で終えた。
後半に入り、パントブロックを2回されてしまい、その他のミスも連続し、23対26で敗退。
我々の4年間は、冬の長居球技場の薄暗い寒空に、寂しく終わりを告げた。
(小泉 欧児)


1998年 「昨年の先輩方の屈辱を晴らし、入れ替え戦勝利。そして1部復帰へ」

「昨年の先輩方の屈辱を晴らし、入れ替え戦勝利。そして1部復帰へ」

震災の年に入学した我々も最終学年を迎えたが、昨年入れ替え戦で負け2部リーグでのスタートとなった。
昨年入れ替え戦で負けた日から我々4回生は昨年の先輩方の屈辱を晴らし3回生以下に1部のフィールドで
プレーさせてあげたいという明確な目標のもとスタートし、春のシーズンは西日本選手権で優勝。
秋のシーズンではタレントが揃い、虎視眈々と1部昇格を目指し我々に闘志を燃やしていた龍谷大、大体大を破り、
東海代表にも勝利し、いよいよ入れ替え戦までたどり着いた。
が、入れ替え戦までの道のりは長かった。チームは4回生が引っ張ると言われながら実際は幹部、
パートリーダーに負担をかけていた現状を、パント、キックオフなどキッキングに各リーダーを置く事から始め、
部室の掃除リーダーまで作り4回生全員で取り組んだ。
時には何度か言い争いがあり、リーグ戦初戦前日にも下級生全員がいる中でもした。
確かにその場の空気は悪くなっていたが、今思うと妥協を許さないという空気は下級生にも伝わりチームは引き締まったように思う。
昨年の入れ替え戦での敗戦の最大の原因であるキッキングに関しても、レギュラー主体が参加しそれに加えレギュラー以外の4回生が
チームに貢献しようと参加しキッキングで負ければ4回生のせいであるとプレッシャーを背負いながら取り組んでいった。
そして入れ替え戦、相手は昨年の入れ替え戦で負けた同志社。願ってもない対戦相手だった。
前半は入れ替え戦独特の空気を払拭できず0-0で折り返し、後半に入るとキックオフリターン、パントリターン、
パントカバーでいいプレーが出て敵陣ゴール前まで詰め寄りTDまでは行かず先制を狙ったFGも失敗、
試合終了間際で決まれば勝利のFGも失敗と嫌な空気が流れたが、
我々4回生はまだこのメンバーでフットボールができると開き直ってプレーオフに挑め、
タイブレーク2回目の同志社のFGがバーをそれ我々の勝利とともに1部復帰を成し遂げた。
入れ替え戦までの2週間。我々4回生は今までにないプレッシャーを感じ、張り詰めた空気の中での最後の練習、そして勝利。
4回生を始めショルダーを着ていない1回生、マネージャー、トレーナーも泣いていた。まさにチーム1願となっての勝利だった。
昨年の先輩方の無念を晴らし、下級生には1部のフィールドという置き土産ができ達成感と安堵感で涙が止まらなかった。
そして整列の時に「お前ら、かっこええぞ」と観客席から聞こえた言葉は今でも忘れられない。
(松岡 寛)


1999年 「歴史的快挙を残した年」 コカコーラCM出演!

「歴史的快挙を残した年」

 1999年は甲南大学の新たな歴史を作る年であったと思います。
関西学院大学との試合で初めて勝利した事、26年ぶりに単独4位 4勝の結果を残した事。
我々は地獄と天国を味わった年代でもありました。我々が入部をした年、1部リーグ、2回生時に2部リーグに落ち、
3回生で1部リーグに昇格し、最終学年では創部26年ぶりの4勝単独4位の記録を残す事が出来た有意義のある4年間でした。
 先輩や後輩のおかげでこの結果を残す事ができ、同期一同、感謝の気持ちを今でも持ち続けております。
我々が4回生の年、すべての環境、条件が揃っていたかもしれません。
 ジョンマコビック氏の来日、デイリーコーチの固定化、トレーニングルーム、トレーナー、マネージャーの充実化など、
バックで支えて頂いた人達がいたからこそ我々プレーヤーが全力でプレー出来たのだと思います。
 3回生時に同志社戦後の入替勝利の雄叫びと共に我々にかかる1部での重圧、嬉しいという感覚よりも、
むしろ維持発展させる事への難しさと2部に転落したらどうなるのであろうかなどの不安が我々にのしかかってきたのです。
重圧を撥ね退けた我々の代の特徴を先に述べ、リーグ戦での話をしたいと思います。
 我々の代は一言で表現すると「普通の選手の集まり」でありました。特別能力、スター選手がいる代ではなく、
体力的にも、能力的にもすべての上で普通であったと思います。ですが、口を揃えて言えることは、
「チーム一丸となり、チーム力、組織力ではどの学年よりも我々が勝っている」と自負しております。
それは、我々の力量を我々自身が把握していたのかも知れません。
1つ上の代・1つ下の代にはスター選手が居た事により我々の役割が明確になったのであると思います。
 1999年代の最初の勝利は関西学院大学との練習試合、13-10での勝利。
春の試合で負けたのはALL関学との試合だけでした。この勢いで挑んだリーグ戦ですが、いきなりの3連敗。
立命・京大・関学と立て続けに負け、すべての関係者の方が入替間違いなしと思ったかも知れません。
我々は絶望感の中、関学戦終了後、3時間の4回生ミーティングを行い、もう一度目的意識を明確化し
チーム一丸となって戦う決意をしました。
近大戦までの練習は過去経験した入替戦の練習に勝るぐらいの緊迫感のある2週間であったと時が経った今でも思い出します。
そして近大戦。後がなくなった我々にとって近大戦はまさに学生生活をかけた試合でもありました。
すべての面で近大の方が上だったかも知れません。
ただ勝ったのはまとまりあるチームワーク力、勝ちたいと言う気持ちが奇跡の逆転勝利を生んだのであると思っております。
この勝利があったからこそ後の戦いに勢いを持つ事が出来たと思います。
近大、神戸大、関西大と応援して頂いた皆様方には冷や冷やさせる試合が続き、
安心して試合を観て頂く事が出来なかったのではと反省しております。
3勝3敗での最後の大産戦は我々4回生にとっては次の年につなげる試合と過去の怨念を晴らす使命感ある試合でもありました。
結果は17-7。この試合だけは皆さんも安心して観ていただく事が出来たのではと勝手ながら思っております。
アメリカンフットボールを通し、我々の代は多くのことを学び、言葉には表す事のできない達成感を味わう事が出来ました。
冒頭に述べさせていただいたように、諸先輩方・後輩のおかげで我々の代は支えていただけた事をいつまでも感謝し、
OBとして甲南アメフト部を応援していきたいと思っております。
(川瀬紀彦)


2000年 「開幕4連勝、そして3強への挑戦」

「開幕4連勝、そして3強への挑戦」

2000年度、我々は昨年度の1部リーグ4位という成績の、その先にある3強の壁を崩し、新たな歴史を刻むべく、
1部リーグ勝ち越しを目標として設定した。
幸いにも昨年度のチーム躍進の原動力となったプレーヤーが攻守ともに多数残っており、目標を達成するには好条件が揃っていた。
中でも主将DE慈幸、オールジャパンDL岡部、副将DB野際らを中心とするディフェンスは安定しており、
関西リーディングレシーバー松下とQB仲田のホットラインを擁するオフェンスは高い得点力を誇っていた。
 苦しい夏を越え、秋のリーグ戦、初戦の神戸大学からは無難に勝利を修め、続く近畿大学戦、
オフェンスのファーストシリーズでは梅谷コーチの提案で練習を重ねたノーハドルオフェンスが炸裂。
WR松下のリバースプレーで敵陣10ydまで攻め込み難なく先制TDをあげた。
その後QB仲田がケガによりベンチに下がるアクシデントに見舞われたが、
2回生QB池垣の落ち着いたプレーで順調に試合を運び、結果27―7で2連勝をあげた。
この試合によりチームは自信を持つことができ、続く3戦目の大阪産業大学、4戦目の同志社大学にも順当に勝利を修めることができ、
その結果甲南史上37年ぶりとなる開幕4連勝をあげ、同時に年間目標も達成することができた。 
勢いに乗る我々の次なるターゲットは3強へと移り、臨んだ5戦目は学生最強チーム、関西学院との全勝対決であった。
チームは最高の状態にあり、必勝を望んで迎えた1Q終盤、パントブロックにより先制TDをあげ、
その後もQB仲田の活躍により、前半を14-14の同点で折り返した。しかし後半には地力の差が現れ、結果28―49と敗れてしまったが、
次につながる試合のはずであった。
 しかし我々の躍進はここまでで、続く立命館大学、京都大学には惨敗を喫し、3強の一角を崩すという目標は達成することができずに引退を迎えた。
 甲南大学レッドギャングという器は、二度と戻ることのない時間の中で、なにものにも代えることのできない貴重な経験を与えてくれた。
目を閉じると、ゲーム開始前の熱い気持ちや合宿を終えた後の達成感、勝利した後の飲み会など、数えあげればきりがないほどの思い出が浮かんでくる。
この文章を読んでくれた2000年度のチームメイト達もきっと同じ気持ちに浸ってくれるはずである。
最後に、最高のチームメイト達とのすばらしい関係を、今後一生涯続けていけるよう学年を代表して心からお願いする次第である。
(向井 充)


2001年 「最終戦後の抽選で入替戦回避」

「最終戦後の抽選で入替戦回避」

入部当時2部リーグからのスタートだった我々は2、3回生時は先輩方のおかげで1部リーグ2年連続4位と輝かしい成績を残し、
最終学年を引継いだ。今年こそは「3強食い!」と意気揚揚と伊田主将の下、新チームでスタートを切ったわけだが
終わってみれば抽選で入替戦回避と若干しょっぱい青春の1ページであった。
ただ大学を卒業して数年たった今、ふと振り返ってみると試合結果云々よりもその過程や、
フットボールで得たものの方が多くの思い出として残っている。
そこでここは過去の大先輩方の執筆とは少し趣向を変えて2001年リーグを共に闘った、
ファンキーでパッションな仲間を勝手ながら偏見を交えて簡単に紹介していこうと思う。

(以下順不同っていうかポジション順?)
伊田(主将)主将なのにやる気があるのかないのかわからないくらい寡黙。だが口数こそは少ないものの逆にそれがいい感じでオーラを醸しだしていた気がする、とフォローしておく。 
石原(副将)現在松下電工でフットボールを続けている。細い目と極悪な顔はスネオとジャイアンを足して2で割ったようなもの。でも中身はのびたくん。
前田 お洒落さんレシーバー。喰いだおれ人形ばりのお洒落さんでやけに落ち着いていた。
中西 口先番長。社会人になった今では生まれ持った口のうまさでトップセールスマン。客も女も口説きまくるぜベイベー!
西口 汗かきすぎ。とても素晴らしいFBだったがハンドオフするとボールがびしょびしょになるのでトリプルオプションができなかった。4年間ずっと丸坊主。
玉田 名前の通り玉みたいな奴で、大産大戦の独走タッチダウンのテケテケ走りは忘れられない。社会人となった今もテケテケと・・・。
須田 鍋奉行、といってもかぶるの専門。鍋を食い終わったらダシを頭から浴びて締めます。久々にまた鍋かぶるとこがみたいです。まだやってるんでしょう?
草場 和製ビンラディン。口先番長補佐代行。しかし彼の口先には誰も興味を示さない。
宇杉 背がでかい。それなのになぜか自ら疎遠を希望するタイプ。
松岡 今は鍼の先生。でもまるで悪代官。同期一の巨漢で悪さばかりしていた。あ、今もか。。
小塚 わんぱく相撲横綱みたいな感じ。4年間誰も自分の部屋に近づくことを許さなかった。
原  いわずと知れたチームの顔(っていうか顔がデカイだけ)抜群のリアクションと芸人魂でチームの人気者だった。
武智 同期結婚第一号。ディフェンスを裏から操る黒幕。というか腹が黒い。
高見 ポリス。色白で薄い髭を無理やり伸ばしてみすぼらしかった。
富士 ポリス。今はドコニイマスカ?消息が途絶えております。。。玉田を捕まえる為に張り込み中?
充加 ごむまりのようなマネージャー。いたってマイペースでほんわかした雰囲気を作っていた。
雅恵 美人のように見えるマネージャー。遠慮のできないトークで裏ボス的な存在。
望月 機関車トーマスのようなほっぺたのトレーナー。社会に出て顔がまん丸になってよけいトーマス似に。
仲田 チームからの信頼あつく、いつも頼られるお兄さん的存在。そしてイケメン。
みんなアメフト大好きの素晴らしい仲間でした。ちなみに苦情等は一切受け付けておりませんのであしからず。
(仲田 睦)


2002年 「激動の2002年」 年末に西宮スタジアム・西宮球技場閉鎖

「激動の2002年」

関西フットボールのメッカ、西宮球技場・西宮スタジアム最後の年となった2002年シーズンは
梅谷氏を新監督としてコーチ体制を新しくして、まさに新生REDGANGとしてのスタートとなった。
オフェンスは従来のオプションに、近年稀に見る大型ラインのパワープレーを加え、
ディフェンスは今年新たに取り組んだ斬新な3-4ディフェンスで秋に「4勝」することを目標として
春のシーズンに臨んだが、予定していた5試合を1勝4敗と散々な結果で終えることとなった。
結果の出なかったディフェンスは秋に向け、幹部を中心に大幅なシステム変更を実施することとなった。
連日、徹夜でミーティングを実施していたことを記憶している。
夏の練習でチームとして手ごたえをつかんでいたが、副将であり、
正QBの池垣が再び負傷。オフェンスは直前でエースレシーバーの吉田をQBに据え
大幅にプランを変更せざるを得なかった。
また、スペシャリストにも不安を残して秋のシーズンを迎えた。
第1戦の京大には敗れたが、第2戦の近大戦、再構築したディフェンスが徹底したスカウティングと
アグレッシブなプレーで相手の攻撃をシャットアウト。
決勝FGにつながるインターセプトも決め、その機会を1年生キッカー成相が見事に決め、3-0で勝利。
第3・4戦は連敗し、第5戦に勝利して向かえた同志社戦。
4勝のためには負けられない試合だった。負傷しながらもチームを支え続けたきた池垣もいよいよ復活し、
好調のラン攻撃と効果的なパス攻撃でドライブを続けたが、要所で反則を多発。
ディフェンスも粘り強く対抗したが、相手のラン攻撃を止められず、3点のリードを許したまま。
試合終了間際、同点FGのチャンスがあったがこれを決められず、敗戦。
目標達成が出来なくなり、チームを1部に残すことが至上命題となった。
しかし、続く神戸大にも破れ、2勝止まりとなり入替戦出場の可能性を残してしまう。
入替を想定してスカウティングを始めたが、幸運にも他校の結果により残留決定となった。
6位となったことで初の西日本大学王座決定戦に出場することとなった。
試合はオフェンス・ディフェンスともに相手九州大を圧倒。初の栄冠を獲得した。
この試合でQBの池垣がMVPを獲得したことも同期として特別嬉しい出来事であった。
4回生として立てた目標を達成することは出来ず悔いは残ったが、なんとか次の世代に1部の舞台を残すことができた。
(日比 俊輔)


2003年 「変革と苦難の年」

「変革と苦難の年」

2003年のシーズンを振り返ると、まさに変革と苦難の年であったと思う。
秋の目標に、「勝ち越し」を掲げ、昨今の部員数の大幅な減少という現状でこの厳しい目標を達成すべく、
無駄を省き効率的にチームを運営していくためには何が自分達にとって必要であり何が自分達にとって不必要であるか、
といった優先順位を定める事からチーム作りに取り組んだ。
自分達のチームに合ったやり方でチームを作っていくためには慣習的となっている物事をもう一度見つめ直し、
こうすればもっと効率的に出来るのではないか、このやり方の方が自分達に合っているのではないか、
というある種の「創造的破壊」なるものを実践するために、幹部でのミーティング及び下級生へのブレークダウンを繰り返し行った。
中でも筋力トレーニングにあたっては、外部よりのストレングスコーチを部員全員でお金を出し合い雇う事にした。
もちろんお金のない学生にとっては、大変厳しい事であったが、日々の練習の合間を縫ってオフの日にはアルバイトをし、
お金を出し合った。それでも、1回生から4回生まで全員で考え、受動的にではなく自主的に決めた事であるので、
お金を出し合う事について不満を言う者は誰一人いなかった。
チームを作っていくにあたり、我々幹部が一番に考えた事は、「人に言われたからする」のではなく、
「自分達で決めたのだからやり通す」という事であり、下級生達もその考えを理解してくれ、
自主的に考え行動するという事に確かな手応えを感じ2003年度のレッドギャングは春のシーズンを迎えることとなった。
春の初戦、学習院大学との定期戦を迎え、昨年の悔しい思いを胸に並々ならぬ気迫を持って試合に望んだ結果、
一時はリードを許したものの第4Qにパッシングオフェンスに火が付き、27-19という結果で勝利を収めることとなり、
詰めの甘さはあったものの自主的に取り組むという自分達の取り組みに間違いはなかったのだと秋のシーズンに向けて好発進をした。
しかしその後、春の試合を重ねるにあたり「詰めの甘さ」が露呈し、2勝5敗という結果で春のシーズンを終える事になった。
秋のシーズンに向けて、「妥協を許さないチーム」を目指し再発進する事となったが、
「勝ち越し」という目標を達成出来ずに終わったどころか4年ぶりの2部リーグ降格という不甲斐ない結果に終わってしまい、
3回生以下の部員に1部リーグという戦いの場を与えてあげる事が出来ない結果に終わった。
不甲斐ない我々4回生にとって、一生涯後悔する事になってしまったが、
3回生以下の実力は1部リーグの実力と遜色がなかったと確信している。
4回生に1年間付いてきてくれた事に感謝すると共に、コーチ陣を始め、後援会の支えてくださった皆様、
そしてOBの皆様には感謝の気持ちで一杯ですが、この先OBの一員として1年でも早く1部リーグ復帰を果たしてほしいという
4回生一同の切なる願いのもと出来る限りの事をしてレッドギャングを応援していきたいと思う。
(石川 陽平)


2004年 「1部復帰を目指して」

「1部復帰を目指して」

2004年度、1部リーグ復帰を最大目標として、全員がひとつになり、勝っていきたいという願い込めて、
僕たちは「ONE」を合言葉にスタートした。
全勝で迎えた春の最終戦。仮想入れ替え戦と位置付けた1部リーグチーム、近畿大との対戦は、
シーソーゲームのような点の取り合いとなったが、最後に一歩及ばず、1部チームとの差を思い知らされる結果となった。
本番である秋のリーグ戦。4回生は『負ければ引退…』という緊張感の中、試合に挑んだ。
初戦、二戦目を共に大勝し、いける!という思いで迎えた大阪体育大との三戦目は、前二戦からの気の緩みが出たのか、
引き分けという結果に終わってしまった。僕たちはこのゲームで、危うく1部リーグの大学に挑戦する権利を失いかけ、
結果的に入れ替え戦に出場することは出来たが、『昨年まで1部リーグでやってきた、やってこれた』という自信を
完膚なきまでに叩き潰され、改めて自分たちの力不足を認識させられた。
そして、本当の挑戦者として挑んだ入れ替え戦の同志社大戦。ファーストヒットでやれる!という思いが全員にあった。
しかし、前半、1部のスピードに対応出来ず、ついていくのがやっとという感じで、FGとTDをとられ0-10。
2Qには、ペースを掴めだして念願のTDをあげ、リズムに乗れたように思ったが、直後にキックオフリターンTDを同志社大にとられ、
そのまま前半を終えた。勝負の後半。最初に得点したのは、僕たちだった。全員がひとつになり、得点につなげ、3点差にまでせまった。
ここからだと思った。しかし、その後は得点に結びつけることが出来ず、逆に奪われ、敗退。
2004年度のチームの目標、1部への復帰は果たすことが出来なかった。試合に出ることができなかったチームメイトだけでなく
コーチ、先輩など応援してくださった多くの方々に応えることが出来ず、
また自分の甘さや不甲斐なさに涙が止まらなかった。
「ONE」というスローガンの下、頑張ってきた一年、僕たちはひとつになりプレーをすることが出来たし、
最終戦となった同志社大戦もみんなの気持ちは見えていた。
しかし、チームとして勝てなければ、目標を達成できなければ意味がなく、
そのことが本当に悔やまれる。後輩たちには僕たちの分までも来年、フィールドで笑ってもらいたい。
(増田 憲一)


2005年 50周年記念式典@神戸ベイシェラトン 周年記念誌発行


2006年


2007年 大学のスポーツ強化団体に指定される


2008年


2009年 「36年ぶりに京都大に勝利」 グラウンド人工芝化 甲子園ボウルが全国トーナメント方式に変更される


2010年


2011年


2012年


2013年


2014年 一部リーグで統一球での運営開始


2015年 60周年記念式典@神戸ベイシェラトン 部旗新調 大学寄付金制度発足


2015年 60周年記念 部旗作成


2016年 甲子園ボウルトーナメント方式変更


2017年度 2部リーグ再編 次年度より1ブロック制へ


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